「向上心を掻き立てられた」 藤川球児氏がWBC連覇で学んだ勝負に徹する姿勢

2021.1.25

昨季を限りに22年の現役生活に幕を下ろした藤川球児氏は、世代を代表するピッチャーの1人だった。日米通算245セーブを記録。最多セーブ投手のタイトルは2007年と2011年、最優秀中継ぎ投手のタイトルは2005年と2006年の2度獲得している。

写真提供=Full-Count

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第1、2回WBC優勝戦士の藤川氏が語る代表経験「プレッシャーしかなかった」

 昨季を限りに22年の現役生活に幕を下ろした藤川球児氏は、世代を代表するピッチャーの1人だった。日米通算245セーブを記録。最多セーブ投手のタイトルは2007年と2011年、最優秀中継ぎ投手のタイトルは2005年と2006年の2度獲得している。

 阪神では2003年と2005年にリーグ優勝を2度経験しているが、もう一つ、2度の優勝を経験した舞台がある。それが「ワールド・ベースボール・クラシック™」(以下WBC)だ。

 2006年の第1回大会、そして2009年の第2回大会に出場し、主力メンバーとして優勝に大きく貢献。この時味わった世界一の経験は、輝かしいキャリアにおいてどんな位置づけだったのだろうか。

「プレッシャーしかありませんでしたね」

 2006年、日本代表の一員として臨んだ第1回WBC。藤川氏は、当時をこう振り返る。

 前年はプロ7年目にして、ようやく1軍で結果を残した。80試合に登板し、7勝1敗46ホールド1セーブ、防御率1.36の好成績。最優秀中継ぎ投手賞のタイトルまで手に入れた25歳右腕に、初めて野球の本場・メジャーリーグの選手と対峙するチャンスが巡ってきた。

「野球ではオリンピック以外、初めての大きな国際大会。その当時、僕もまだまだ若かったので、イチローさんであったり、アマチュア時代にオリンピックで戦った選手たちが、国を背負って戦うとはどういうことぞや、というのを教えてくれました。実際、2006年は駆け出しの大会で、特にアメリカ代表はスーパートップが集まっていたわけではなかった。それでもメディアをはじめ周囲は、国の威信、という部分を取り上げる。それはすごく大きく高いハードルでしたね」

 上り調子で勢いある25歳ですら重圧を感じざるを得なかった大会。王貞治監督(現・福岡ソフトバンク球団会長)が率いた日本代表は勝ち進みながらチーム力を高め、脅威の粘り強さを発揮して、見事初代王者の称号を手に入れた。

「戦っているプレーヤーだけの話ではない。野球を愛する国民に向けての勝負」

 その3年後に行われた第2回大会は、各代表チームの本気度が一変していた。“野球の母国”としての威信を取り戻したいアメリカは、後に米国野球殿堂入りを果たす大スターのデレク・ジーター内野手を筆頭に実力者を揃え、ドミニカ共和国もMLBを代表する大砲、デービッド・オルティス内野手、殿堂投手のペドロ・マルティネス投手らを起用。ディフェンディング王者・日本を取り巻く環境は、厳しさを増していた。

 それでも、原辰徳監督(現・読売監督)率いる侍ジャパンは、1次ラウンドと2次ラウンドで2度敗れた韓国に、決勝では延長10回を戦って勝利。大会2連覇を果たし、改めて王者・日本の姿を見せつけた。

 2度の優勝を只中で経験した藤川氏は「純粋に実力で選ばれた人たちが、腕っぷしだけで勝負しにいった大会。選手にとって、ものすごく大きな価値のある大会になりましたね。ただ、ハードでしたけど」と笑いながら振り返る。そして、「チームとして勝負に徹するということが、どういうことなのか。それを勉強させてもらった場所でもありました」と続けた。

「王さん、原さんという監督の下で、勝つことに対して一番意味を感じる大会だ、ということを学びましたね。戦っているプレーヤーだけの話ではない。野球を愛する国民に向けての勝負。だからこそ、選ぶ方は大変だったと思うけど、プレッシャーを超えるパフォーマンスを出せる選手が集まったんだと思います」

「世界のトップと渡り合えると肌で感じた」 藤川氏にとっての日本代表とは…

 2連覇した日本代表はチームとして大きな自信を手に入れたが、「選手は個々によって違うんじゃないですかね」という。大会期間中に好成績を残した選手、自分で納得のいくパフォーマンスが出せなかった選手。大会が選手個々にもたらした意味は様々だが、どんな形であれ「その後の人生には響いていると思います」と話す。

 第1回WBCを戦ったメンバーのうち、松坂大輔投手(現・埼玉西武)、和田毅投手(現・福岡ソフトバンク)、上原浩治投手(現解説者)、岩村明憲内野手(現・ルートインBC福島監督)、西岡剛内野手、川崎宗則内野手、福留孝介外野手(現・中日)、青木宣親外野手(現・東京ヤクルト)らが、大会後に海を渡り、メジャーの舞台で戦った。第2回の後には、ダルビッシュ有投手(現・サンディエゴ・パドレス)、田中将大投手、中島宏之内野手(現・読売)らが続いた。

「若い世代でWBCを経験した選手の多くがメジャーリーグに挑戦したという事実がある。選手たちは世界のトッププレーヤーと渡り合えると肌で感じたわけだから、向上心を掻き立てられますよね。そもそも、向上心のある選手たちが集うべき場所であり、現状に満足せず、まだまだチャレンジしたいと思う選手が選ばれる場所。僕にとっては、野球選手としての能力をもっと引き出してくれる、今まで出会ったことがない新たなハードルを見せてくれる舞台でした」

 2013年にシカゴ・カブスへ移籍し、メジャーのマウンドに立った。2015年には四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで独立リーグという舞台を経験し、翌年に阪神へ復帰。日米通算245セーブという大記録を積み上げた22年は栄光と苦しみが混在する日々だったが、日本代表として戦った経験が藤川氏のキャリアの可能性を広げ、深みを与えたことは間違いない。

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