U-21代表経験を「生かせず終わった」 プロ3年で引退した元中日右腕が抱く想い

2020.9.14

あまり喜怒哀楽を出さない性格でも、その時ばかりは表情が緩んだ。「あの侍のユニホームが着られるんだなと」。2014年11月に台湾・台中で開かれた「第1回 IBAF 21Uワールドカップ」。21歳以下の選手たちで構成する若き侍ジャパンのメンバーが直前の10月に発表された時、当時、三菱日立パワーシステムズ横浜(現三菱パワー)に所属していた野村亮介氏は、誇らしく思った。

写真提供=Full-Count

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社会人からU-21代表入り、現在は中日で打撃投手を務める野村亮介氏

 あまり喜怒哀楽を出さない性格でも、その時ばかりは表情が緩んだ。「あの侍のユニホームが着られるんだなと」。2014年11月に台湾・台中で開かれた「第1回 IBAF 21Uワールドカップ」。21歳以下の選手たちで構成する若き侍ジャパンのメンバーが直前の10月に発表された時、当時、三菱日立パワーシステムズ横浜(現三菱パワー)に所属していた野村亮介氏は、誇らしく思った。

 メンバー発表から2日後、さらなる朗報が届く。ドラフト会議で中日から1位指名を受け、多くの報道陣に囲まれた。その年の都市対抗野球大会で頭角を現した高卒社会人3年目の右腕。187センチの長身から投じる時速150キロに迫る直球と落差の大きなフォークが、当時中日のゼネラルマネージャーだった落合博満氏の目に留まった。

「ドラ1」の肩書きを背負い、挑む国際舞台。「自分がどれだけできるか、プロに入る前に確認できるいい機会だなと」という気持ちとは裏腹に、チーム練習は休みの時期で思うように投げ込みができない。「しっかり準備をしなかった自分が悪いだけです」。決して言い訳はしないが、不安がないと言えば嘘だった。

 代表チームに合流すると、周囲の投手たちと状態の差は明らかだった。社会人では先発を担っていたが、首脳陣から「7イニングを投げるのは無理だろ?」と言われ、リリーフに回った。先発とは違う調整に苦慮する中、任されたのは試合を締める大役、侍ジャパンのクローザーだった。

不完全燃焼の気持ちはプロで晴らすはずも、故障続きで1軍に定着できず

 初戦のオーストラリア戦。2点リードの9回に名前が呼ばれた。「緊張してあんまり覚えてないんですが、ストライクが入るか不安だったと思います」と当時の気持ちを振り返る。外国人打者との真剣勝負は初めて。地に足がつかない感覚のままマウンドに立ったが、結果はついてきた。スライダーで見逃し三振、直球で三塁ゴロ、フォークで空振り三振。3者凡退で初陣を飾った。

 1次、2次ラウンドでは計3試合に登板し、無失点の2セーブ。チャイニーズ・タイペイとの決勝では窮地の終盤に出番が回ってくるも抑えきれず、チームも0-9で完敗を喫した。「大会を通して、いい感覚で投げることができませんでした」。不完全燃焼の気持ちは、プロで燃え上がらせるはずだった。

 だが、待っていたのは、厳しい現実だった。右肩痛で出遅れたプロ1年目は、1軍では中継ぎとしてわずか3試合に登板したのみで防御率10.13。投球フォームの試行錯誤を繰り返し、状態が上向いたと思えば故障で逆戻り、という悪循環を繰り返し、2年目以降は1軍のマウンドにすら立てなかった。

「それでもドラ1か」

 ナゴヤ球場のスタンドから聞こえるヤジは、もう聞き飽きた。「フォークの神様」杉下茂氏、「闘将」星野仙一氏ら大投手たちが背負ったエースナンバー「20」のユニホームは、わずか3年で脱ぐことになった。

代表経験をプロで生かし切れず「悔しいし、申し訳ない気持ちです」

「何をするにしても直感頼りで、ただやっているだけという感じだったのかなと。もっと細かい部分まで深く考えながらやるべきでした」

 今、振り返ってみると、台湾で一緒に戦ったメンバーの中で、のちに飛躍していった選手たちは確かに深く野球と向き合っていた。思い出すのは、鈴木誠也外野手(広島東洋)や近藤健介外野手(北海道日本ハム)らの姿だ。野村氏は、短い現役生活を省みて言う。

「日本代表の経験を生かせずにプロ人生が終わったことは悔しいし、申し訳ない気持ちです」

 2017年を限りに現役を引退した後は中日に残り、打撃投手として3年目を迎えた。「選手のために裏方は見えないところで色々やっているんだと、裏方の立場になって気付くことができました」と話す。今は7年連続Bクラスからの脱却を目指すチームを陰で支える日々。ドラフト1位から打撃投手へ――。たとえ立場は変わっても、自らの仕事と真摯に向き合う姿勢は変わらない。

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