大学代表での経験は「本当に財産」 乾真大が感謝する“親友”斎藤佑樹との出会い

2022.9.12

2007年から2010年までの4年間は、大学野球が近年屈指の大注目を浴びた時期ではなかったか。その中心にいたのが、高校野球で“ハンカチ王子”として社会現象にまでなった斎藤佑樹投手(早稲田大学)だった。在学中の4年間、ずっと大学代表に選ばれた右腕の後を追いかけるように、2年生から代表入りしたのが乾真大投手(東洋大学)だ。2011年には揃って北海道日本ハムに入団。同学年のスターと濃密な時間を過ごした乾投手は今夏、ルートインBCリーグの神奈川フューチャードリームスで現役から退く決断をした。

写真提供=Full-Count

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“ハンカチ世代”の33歳左腕、独立リーグで今夏に引退

 2007年から2010年までの4年間は、大学野球が近年屈指の大注目を浴びた時期ではなかったか。その中心にいたのが、高校野球で“ハンカチ王子”として社会現象にまでなった斎藤佑樹投手(早稲田大学)だった。在学中の4年間、ずっと大学代表に選ばれた右腕の後を追いかけるように、2年生から代表入りしたのが乾真大投手(東洋大学)だ。2011年には揃って北海道日本ハムに入団。同学年のスターと濃密な時間を過ごした乾投手は今夏、ルートインBCリーグの神奈川フューチャードリームスで現役から退く決断をした。

 8月30日にバッティングパレス相石スタジアムひらつかで行われた引退試合で、33歳左腕は茨城アストロプラネッツを相手に本気の勝負を繰り広げた。7回2/3を投げて2失点、10奪三振。直球は時速148キロを計測し、とても現役を退くと決めた選手のパフォーマンスではなかった。試合後のセレモニーで、ひと足早く昨季限りで引退した斎藤氏から届いた「よくここまで投げてくれた。すごいよ。心からすごいよ」というメッセージが読み上げられると、神妙な表情は崩れ、思わず白い歯がこぼれた。

「佑樹はよく『仲間』って言いますけどね……。親友です、本当に。しょっちゅう連絡を取るかと言えば、そうではないですけど、今後も続けていきたい関係です」

高校時代にあった微妙な“距離”、大学代表で急速に変化

 2人は高校3年の夏、甲子園直後に結成された高校代表でチームメートになり、米国で「日米親善高校野球大会」を戦った。ただ、この時は甲子園で決勝再試合というドラマを演じた斎藤投手と田中将大投手(駒大苫小牧高)の注目度が飛び抜けており、「だから、佑樹と高校の時はそんなにしゃべってないんです」。ミーティング時の座席は背番号順で、1番の斎藤投手と4番の乾投手には、微妙な“距離”があった。

 その2年後、2008年にチェコで行われた「第4回世界大学野球選手権大会」に向け、乾投手は2年生ながら大学代表に初選出された。この時、2年生は乾投手と斎藤投手の2人だけ。宿舎でも同室となり、急速に距離が縮まった。

 大会では斎藤投手は主に先発起用され、乾投手は3試合にリリーフ登板。「一緒の部屋になって、ようやくどんな性格か分かったので、本当にそこからですね。仲良くなったのは」。翌日に先発を控えた斎藤投手の衣服を、乾投手が洗濯してピシッと畳むほどにまで仲良くなった。日本に帰ってからも交友は続き、早稲田大学と東洋大学がオープン戦をする時はグラウンドで話し込むようにもなった。

 上級生になると、大学代表には同学年が増えていった。2009年に日本で行われた「第37回日米大学野球選手権大会」でも、2人は揃って代表入り。そこに大石達也投手(早稲田大学)と澤村拓一投手(中央大学)が加わり、同学年は4人になった。乾投手はここでも3試合に投げ、日本が3勝2敗と勝ち越すのに貢献した。

当初は無我夢中だった大学代表、学年が上がるにつれて「自分の励みに」

 4年生だった2010年には日本で「第5回世界大学野球選手権大会」が開催された。日本は米国との準決勝に2-4で敗れたものの、韓国との3位決定戦では9-0で完勝。3試合に登板した乾投手は、そのうち2試合で斎藤投手からマウンドを引き継ぐなど寄り添った。

「2年生の時は無我夢中。『俺が入ったの?』という感じでした。でも、その後は進路などにも関わってくるので(代表に)入ってからが大事。日本代表という、むちゃくちゃレベルの高いところでできるのは、自分の励みになっていましたね」

 大学代表での存在感も認められ、同年秋に北海道日本ハムからドラフト3位指名を受けてプロ入りした。奇しくもドラフト1位は斎藤投手。さらに同4位は高校代表で一緒だった榎下陽大投手(九州産業大学)。代表チームの縁がプロでつながった。“ハンカチ王子フィーバー”で野球の枠を越えて注目された新人合同自主トレでは、主に斎藤投手の練習パートナーを務めた。気心知れた2人は支え合い、プロへの第一歩を記した。

同学年にスター選手が多かった巡り合わせに感謝「いい年に生まれた」

「僕はNPBでは、1軍でバンバン投げていたわけではない」と乾投手は言う。1軍登板は7年で74試合。白星は北海道日本ハム時代、2012年5月28日の読売戦(東京ドーム)で挙げた1つにとどまった。だからこそ、2016年の開幕直後に移籍した読売から2年で戦力外通告を受けた時、すべてを変えなければと思った。

「考え方も技術も全部、『変わろう』と思って取り組みました。NPBから戦力外になった時、このままでは戻れないと分かったので。練習方法からフォームから考え方から、本当に何もかも全部です」

 加入した富山GRNサンダーバーズで出会った伊藤智仁監督(現・東京ヤクルト投手コーチ)も、「打たれてもいいから、とにかくストライクを投げろ」と背中を押してくれた。NPBで付きまとった制球難という評価を拭い去ろうと、必死だった。結局、NPB復帰は叶わなかったが、2019年から投手コーチを兼任。翌年移籍した神奈川でも兼任コーチとして3年プレーした。最後の登板を終えると「一切の悔いはない。やり切りました」と言い切れる境地にたどり着いた。

 ハンカチ世代、マー君世代と呼ばれる1988年生まれ。同学年からは多くの選手がプロ入りしたが、現役が数少なくなってきた今、思うことがある。

「甲子園から注目された“スーパーな人たち”と一緒にできたのは、本当にいい巡り合わせというか、いい年に生まれたなあと思いますね。大学代表での経験は、まさに“財産”です。今となっては若い子に話をできますから。みんながどんな投手だったのか、どんな練習をしていたのか。高校や大学を出て、すぐ独立リーグに来る選手も結構多いので」

 今後も「野球を研究し続けたい」と言う乾投手。高校代表・大学代表での経験は、きっとこれからの野球人生でも助けとなるに違いない。

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