武田勝氏が“ど真ん中へ投げる勇気”知った舞台 技巧派左腕が日本代表で得たヒント

2021.12.20

北海道日本ハムで投手コーチを務める武田勝氏は、プロ入り直前となる2005年9月、オランダで開催された「第36回IBAFワールドカップ」で初の日本代表入りを果たした。国際大会の常識に驚き、アクシデントにも見舞われたが、そこでの出会いはプロ入り後に大きなヒントになったという。

写真提供=Full-Count

写真提供=Full-Count

プロ入りラストチャンスと位置づけた年に日本代表初選出

 北海道日本ハムで投手コーチを務める武田勝氏は、プロ入り直前となる2005年9月、オランダで開催された「第36回IBAFワールドカップ」で初の日本代表入りを果たした。国際大会の常識に驚き、アクシデントにも見舞われたが、そこでの出会いはプロ入り後に大きなヒントになったという。

 2005年は、武田氏にとってプロ入りへのラストチャンスという位置づけだった。立正大学から社会人野球のシダックスに入って5年目。前年はプロ入りを打診されたものの、すでに野間口貴彦投手を読売へ送り出すことが決まっていたチームの都合で果たせなかった。

「心は1回折れかけたんですけど、ピッチングについてはやれるという自信を持っていた。だから『もう1回やってみよう。これでダメなら諦めよう』という年でした。幸い、野村(克也)監督がチームにまだいらして『残ってもう1年やれ』と言ってくださった。これでダメだったら、シダックスのカラオケ店で働くんだろうなと思っていました」

 武田氏には剛速球もなければ、激しく変化する球もなく、体が大きいわけでもない。自分でも「いまいち分かりづらい投手ですよね。これといった決め球もないので」と言うほどだ。そんな中でも入社以降、臨時コーチに来た高橋一三氏(元読売、日本ハム)が投球フォームを変えるヒントを、野村克也氏は「弱くても、力がなくても、頭を使え」という野球観を与えてくれた。

 同年7月の都市対抗野球大会は1回戦負けに終わった。先発した武田氏は一発に泣いたものの、投球内容には納得していた。「この調子なら、秋の日本選手権でもう1回アピールできる」と思っていた中で届いたのが、初の日本代表入りという知らせだ。

日本代表のプレッシャーで事前合宿中に血尿と高熱

 当時、プロ選手による日本代表チームは常設されておらず。ペナントレース真っ只中に開催される「第36回IBAFワールドカップ」に備えた日本代表は、社会人23人、大学生1人からなるアマチュア選手で構成されていた。都市対抗野球大会で敗れたチームから順に1人、また1人と川崎市内で行われた合宿に集まり、9月3日の大会初戦に備えた。

 パスポートを作り、大舞台に備えていた武田氏がアクシデントに見舞われたのは、まだ国内にいた時だ。

 ある日、血尿が出た。さらに38度を超える高熱も出た。驚いてかかりつけの病院に行くと「前立腺肥大」と診断された。「疲労とストレスだったんでしょうね……。代表に入るのは初めてだったので」。渡航までに治ったのが幸いだった。後にプロ入りしてからも、登板直前は「お腹の具合が……」と言ってやまなかった“あがり症”にとって、初めての日の丸は重かったという。

 不思議な縁もあった。この時、大学生として唯一代表入りしていたのが、現在北海道日本ハムで投げる宮西尚生投手だった。武田氏はオランダ入りしてからは、磯村秀人投手(当時東芝)と同部屋。そこに宮西投手がいつも遊びにくる毎日を送った。宮西投手とは初対面だったが持参したマヨネーズを貸すなど、どんどん距離は縮まった。さらに……。

「あの宮西だって、全身にじんま疹が出たんですよ」

 今でこそプロ野球の通算ホールド記録を更新し続ける大選手となった宮西投手だが、当時は武田氏と揃ってホームシックにかかっていたのだという。

「ブルペンで一緒にいる時から宮西は『すごく緊張する』と言っていたので、『抑えたら帰れる。頑張れよ』と送り出したり。考えたら、今とやっていることが同じですよね」

 キャッチボールをしてみれば宮西投手のボールは捕りづらく、今へと続く素質を感じていた。ただ当時は2人とも「日本代表」「海外での試合」という未知の環境に戸惑っていた。

試合直前に対戦チームが変更… 国際試合の常識に戸惑いも

 グラウンドでも驚かされることばかりだった。武田氏は9月5日に行われたチェコとの予選リーグB組第3戦に先発し、5回を1安打無失点、11三振を奪っている。

「最初に先発してほしいと言われていましたが、確かその時点では相手がチェコではありませんでした。突然相手が変わっていて『え? そんなことってあるの?』と思ったのを覚えています」

 その後、チャイニーズ・タイペイとの第5戦、ニカラグアとの第8戦に登板し、3試合で自責点0。日本も7勝1敗のB組首位で決勝トーナメントに進んだ。

 日本は準々決勝で、プロの若手選手を中心に構成された韓国代表に1-5で敗北。5位決定トーナメントに回って連勝し、意地を見せた。優勝したのは、今季メジャーリーグでアメリカン・リーグ首位打者に輝いたユリエスキ・グリエル内野手(ヒューストン・アストロズ)らを擁したキューバだった。武田氏は「(日本とは)常識が違いましたね。ストライクゾーンひとつとっても、アンパイアが感覚で裁いている感じがしました。ど真ん中に見えてもボールと言われることがありましたし」と、当時を振り返る。とはいえ、試合中は審判が絶対。慣れない環境に試合の中で適応していくことの大切さを、身をもって知った。

松井光介投手から聞いた“ど真ん中へ投げる勇気”で開眼

 アマチュアのトップ選手たちと過ごす日々の中で得たものもある。この大会で投手陣の中心となっていたのは、高崎健太郎投手(日産自動車、のち横浜)と松井光介投手(JR東日本、のち東京ヤクルト)。特に、同学年の松井投手からは多くのヒントを得たという。

「(松井)光介は真っ直ぐとフォークの投手で、球種が少ないのは僕との共通点なんです。少ない球種でゴリゴリ押すタイプの投手がどう抑えているのかには興味があって、色々話しました。“ど真ん中へ投げる勇気”を教えてもらったのは印象に残っています。野村さんにはよく『アウトローが大事だ』と言われていましたが、これで気持ちが楽になりました」

 武田氏はこの後、11月の大学生・社会人ドラフトで北海道日本ハムから4巡目指名されてプロ入り。28歳になる年に遅咲きのデビューを果たしながら、2016年を最後に引退するまでに通算82勝を挙げる好投手となった。どんどんストライクを投げ、打者を追い込んでいくスタイルが特徴で、四球を出す確率が極めて低い投手として知られたが、日本代表で松井投手に聞いた“ど真ん中へ投げる勇気”はキャリアを通じて大きな支えとなった。

 初めての日本代表経験は、武田氏にどんな経験を与えてくれたのだろう。アクシデントだらけの日々を振り返ると「日本のために戦うのは、正直怖すぎました。責任も大きいので」と本音も覗かせるが、「ただ、チームメートと色々な話をして、それがプロで役に立ったのは間違いないです」とプロとして活躍する土台にもなった出会いに感謝する。

U-15代表のコーチも経験「リラックスしてもらうことだけ考えていた」

 日本代表との縁はまだまだ続く。2007年には北京を目指す日本代表の最終候補に入り、再び縦じまのユニホームに袖を通した。最終的に代表入りは叶わなかったものの、星野仙一監督の下、金メダルの獲得にかける強い思いを目の当たりにした。

 2017年秋には意外な知らせが届いた。「第9回 BFA U15アジア選手権」に参加するU-15代表でのコーチ就任の要請だ。大会会場はシダックス時代に毎年キャンプを行っていた静岡・伊豆。この時、現役時代の経験を振り返り、指導者として徹底したことがある。

「リラックスしてもらうことだけ考えていました。自分が代表でプレッシャーばかり感じていたからでしょうね。首脳陣は僕以外は学校の先生。こんな野球もあるんだと知ってもらえればと思っていました」

 これから高校野球に進もうという選手たちに、野球をもっと好きになってもらいたい思いもあったという。グラウンドに叩くと音が出るピコピコハンマーを持ち込んだり、整地用のトンボでノックを打ってみせたり、選手の緊張をほどくため自らおどけてみせた。選手たちから常に笑顔が消えることがなかったのは言うまでもない。

 この時、5連勝で優勝したU-15代表からは、根本悠楓投手(北海道日本ハム)、内山壮真捕手(東京ヤクルト)というプロ選手も輩出している。根本投手に至っては、今や同チームのコーチと選手という間柄。ここでも代表にまつわる“縁”を感じずにはいられないという。

「当時は根本もホームシックになっていたんです。でも、マウンドに上がると別人のように感じが変わる。楽しみな投手ですよ」

 U-15代表からプロの門を叩いた教え子が、今度はトップチームの一員となれるよう、自身の経験を生かしながら成長をしっかりサポートしていく。

記事提供=Full-Count
写真提供=Full-Count

NEWS新着記事