ソウル銀メダルの原動力、元西武・潮崎氏の脳裏に刻まれた1失点「衝撃でした」

2021.4.12

野球日本代表は2013年に「侍ジャパン」として全世代常設化される以前から、様々な国際大会で好成績を挙げ、そのスピリットは脈々と受け継がれてきた。アジアではライバルの韓国と切磋琢磨し、世界では米国やキューバと覇権を争う野球大国となった日本。これまで数多くの選手たちが代表ユニホームを身にまとい、観る者の心を震わせるドラマを生み出してきた。

写真提供=埼玉西武ライオンズ

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5試合のうち4試合に投げて1失点、チームメートには後に球史を彩る豪華面々

 野球日本代表は2013年に「侍ジャパン」として全世代常設化される以前から、様々な国際大会で好成績を挙げ、そのスピリットは脈々と受け継がれてきた。アジアではライバルの韓国と切磋琢磨し、世界では米国やキューバと覇権を争う野球大国となった日本。これまで数多くの選手たちが代表ユニホームを身にまとい、観る者の心を震わせるドラマを生み出してきた。

 1988年、韓国・ソウル。史上最年少の19歳で日本代表に選ばれ、大車輪の活躍で銀メダル獲得に貢献した右腕がいる。1990年代に西武(現・埼玉西武)の黄金期を支えた1人、潮崎哲也氏(現・埼玉西武ライオンズ 編成グループディレクター)だ。

 当時の日本代表はアマチュア選手のみで構成されていたが、20人中13人が後にプロ入り。その顔ぶれが凄かった。潮崎氏と同い年で日米通算201勝投手となる野茂英雄氏、東京ヤクルトで名捕手となる古田敦也氏、広島東洋に入団して通算2020安打を打つことになる野村謙二郎氏、西武のエースとなる石井丈裕氏ら多士済々だった。

 その中にあって、潮崎氏は「選ばれた以上、金メダルを取らなければならないというプレッシャーは確かにありましたが、僕と野茂は同い年の最年少で、怖いもの知らずの強みがあった。イケイケドンドン。若さがなせる業でした」と振り返る。徳島・鳴門高校3年の春にシンカーを習得したのをきっかけに、社会人野球の松下電器でメキメキと頭角を現し、「高校時代は出れば打たれる2番手投手だったのに、抑えられる感覚に変わり、周りの景色がどんどん変わっていくように見えた」時期でもあった。

今でも鮮明に残る失点シーン「ホームランにはならないはずの球でした」

 特に国際大会では、得意の落差の大きいシンカーが威力を発揮。「外国人特有の振り回す打者に対しては有効で、初見の打者にタイミングを合わされることはほとんどなかったですね」と振り返る。

 ソウル大会では予選リーグ3試合、準決勝、決勝のうち、予選第1戦を除く4試合に登板。わずか1失点に抑えた。しかし今、潮崎氏の脳裏に最も鮮明に刻まれているのは、その1失点のシーンだという。

 決勝の米国戦。3-4の1点ビハインドで6回から救援登板し、快調に相手打線を抑えていた。ところが8回、先頭のティノ・マルティネスに外角低めの速球を逆方向の左翼席へ放り込まれる。「失投ではなかった。感覚的には、あそこに投げておけば、ヒットはともかくホームランにはならないはずの球でした。衝撃でしたね」。この1点がダメ押しとなり、日本代表は3-5で敗れ、金メダルにはあと一歩届かなかった。

 潮崎氏に衝撃の一発を見舞ったマルティネスは、その後、シアトル・マリナーズやニューヨーク・ヤンキースで主軸として活躍。メジャー通算339本塁打を誇る左のスラッガーとして歴史に刻まれている。「しのぎを削った相手がヤンキースで中心打者になったのは、うれしかったですね。彼が活躍するほど僕の自信にもなりました」と述懐する。

多士済々だった日本代表のチームメート、同い年の野茂氏は「本当に志が高い人間」

 敵も凄かったが、日本代表のチームメートも凄かった。同い年の野茂氏は「同じ関西の社会人で、よきライバル。本当に志が高い人間で、尊敬できる男でした」。当時はまだ、日本人初のメジャーリーガーの村上雅則氏が1964、65年にジャイアンツで活躍して以降、メジャーでプレーする日本人は皆無だった。それでも「野茂は当時から外国でもやっていけるという思いを抱いていたのではないか。フォークがあったし、真っ直ぐの威力も負けていなかったですから」と証言する。

 対照的に、古田氏については「当時は打たない9番バッター。野茂とも『古田さんと言えば、セーフティーバントをしていた印象しかない。プロであんなに打つなんて信じられないよな』と話すほどです」と笑う。プロ入り後に首位打者を獲得し、通算2097安打の強打者となるまでには、陰で相当な努力があったのだろう。

 一方、捕手としては当時から超一流だった。「強肩だし、今で言うフレーミング(コースギリギリの際どい投球をストライクに見せるキャッチング技術)を、当時まだ世界で誰もやっていないうちから、古田さんだけはやっていた。肘を張ってキャッチャーミットを横に使う捕手は、他にいなかったのではないか。構えは世界一低く、投手としては低めを意識しやすかった」と絶賛する。

 潮崎氏は1989年ドラフト1位で西武に入団。ライオンズ一筋15年の現役生活で通算82勝55敗55セーブを挙げた。「プロに入ってからも『自分はもっと大きな舞台を経験しているから大丈夫だ』という安心感がありました」と明かす。日本代表としての経験が、プロの世界を戦い抜く上で心の支えとなった。

 引退後は埼玉西武でコーチや2軍監督として後進の指導にあたり、現在は編成グループディレクターとしてフロント業務にあたる。ソウルでの銀メダルから、はや33年が経とうとするが、当時の思い出は今なお色濃く潮崎氏の中で息づく。

記事提供=Full-Count
写真提供=埼玉西武ライオンズ

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