“田舎”から来た高校生がU-18代表入り 「松坂世代」の仲間から受けた大きな刺激
埼玉西武の赤田将吾外野守備走塁コーチは日南学園高(宮崎)3年時に「4番・二塁」として、1998年の夏の甲子園大会で活躍。大会後には松坂大輔投手(横浜高)、杉内俊哉投手(鹿児島実業高)らと共にU-18日本代表の一員として、第3回AAAアジア野球選手権大会(以下、アジア選手権)に出場し優勝に貢献した。「松坂世代」と呼ばれた仲間と過ごした約3週間は、後のプロ野球選手としての大きな礎となった。
写真提供=埼玉西武ライオンズ
甲子園敗退直後に代表入りの連絡、赤田将吾氏「電話切ってすぐに練習した」
埼玉西武の赤田将吾外野守備走塁コーチは日南学園高(宮崎)3年時に「4番・二塁」として、1998年の夏の甲子園大会で活躍。大会後には松坂大輔投手(横浜高)、杉内俊哉投手(鹿児島実業高)らと共にU-18日本代表の一員として、第3回AAAアジア野球選手権大会(以下、アジア選手権)に出場し優勝に貢献した。「松坂世代」と呼ばれた仲間と過ごした約3週間は、後のプロ野球選手としての大きな礎となった。
エースの松坂投手を筆頭に杉内投手、村田修一投手(東福岡高)、新垣渚投手(沖縄水産高)、上重聡投手(PL学園高)、小山良男捕手(横浜高)、東出輝裕内野手(敦賀気比高)、吉本亮内野手(九州学院)ら甲子園を沸かせたスター軍団を中心に召集された18人。メンバー入りした赤田氏は「それは、それは感動しましたよ」と懐かしんだ。
甲子園は3回戦で敗退。鹿児島県内の実家に戻るや指導者から電話があり、代表入りを知らされたという。「日本代表に入りたいと思っていたけど、メンバーを見たらすごい選手ばかりでした」。喜びは格別だった。甲子園の疲労も吹き飛び、「電話切ってすぐに練習し始めましたよ」と笑った。
「大会前に直前合宿があったのですが、豪華なメンバーの中に、田舎から出てきた高校生の自分がいる感じです。すぐにみんなと携帯番号の交換をしました。そうしたら大輔(松坂)は自分を知ってくれていました。嬉しかったですね」
全国トップクラスの仲間から刺激「みんなでプロでやろう」
赤田氏はアジア選手権で「3番・二塁」を任されていたが、4番打者の吉本選手が放つ打球の飛距離には度肝を抜かれた。また、1学年下で選出されていた大島裕行外野手(埼玉栄高)はその当時で赤田氏と同じ49本塁打を放っており、「2年生でこのパワーなのかとビビりました」。赤田氏自身は自チームでは走攻守で“敵なし”だったが、「松坂や杉内がすごいのは当たり前ですが、同じ野手でもすごいヤツがたくさんいることを知ることができたのは良かったです」と振り返った。
全国トップクラスの仲間から打撃や守備の技術論を聞くことで「自分が知らないこと、考えをたくさん吸収することができた。自分の“枠”のようなものは確実に大きくなりました。こういう選手たちと、プロというさらにレベルの高い場所で野球をしたいと思ったし、あそこにいたメンバー同士でも『みんなでプロでやろう』と言い合っていました」という。
「3番・二塁」としてチーム3冠王に…打率は5割超え
大会が始まると、赤田氏は躍動した。主に1、2番を務めていた田中一徳外野手(PL学園高)、東出選手の出塁率が高く、「大体どちらかが出塁して二塁に盗塁している。そして私の打順です。ワンヒットで点が入るような状況が多かったと記憶しています」。多くの刺激をプラスの材料に変え、赤田氏は1本塁打でその他の選手と同じ本数だったが、打率は5割を超え、チャイニーズ・タイペイとの決勝戦以外全てで打点を挙げ、チームの3冠王になれた。
メンバーだけではなく、アジア選手権という大会そのものも選手としての幅を広げた。「あれはツーシームだったのか、シュートなのか分かりませんが、小さく動く球は初めて対戦して、タイミングを取りづらかったですね。すごく難しかったです」。
外国人が球審を務めた試合も初めてで、「ストライクゾーンが違いました。外角が少し広い印象で、ボールと思って手を出さなかった球で、何度か見逃し三振となった打席はありました。それこそ動く球がアウトコースにきたりして……」。
残念ながら、赤田氏にとってアジア選手権が最初で最後の代表入りとなってしまったが、「あの大会があったから、次に自分が国際試合に出場するようなことがあれば、間違いなく生きた経験になったと思います。若いカテゴリーの段階から経験できていたら、年齢を重ねて、それこそWBCのような大きな国際大会で、大きなアドバンテージになるのでしょうね」と語った。
当時の日本代表の指揮と執ったのはPL学園高の名将、中村順司監督。ただ、スター軍団ゆえかミーティングなどで講義するようなことはほとんどしなかったという。赤田氏の記憶に残っている指導は、グラブの小指をはめる部分に小指と薬指の2本を入れて使う選手に対して、5本の指をそれぞれ該当する部分にはめるように言われたこと。「そうじゃないとボールはしっかり握れない」と話していたという。
松坂大輔とともにドラフト1、2位指名で埼玉西武入り
この年のアジア選手権は日本の優勝で幕を閉じた。松坂投手は甲子園での登板過多の疲労を考慮され、先発は決勝戦だけを予定し、逆算するように杉内投手や新垣投手らが投げていた。プロの舞台での“再会”を誓いあった18人の若き侍から、13人がプロ野球の道に進んだ。
「大輔とは、まさかドラフト1、2位という形で同じライオンズに入団するとは思ってもいませんでした。大島も翌年にライオンズに入りました。嬉しくてすぐに一緒に食事に行ったのを覚えています。決勝戦で対戦した台湾の先発投手の張誌家(故人)も後にライオンズに来ましたからね。すごく大事な経験ができましたし、不思議な縁を繋ぐことができた大会でした」
日本代表に選ばれた喜びとプレーで得た刺激、生まれた固い絆が今でも赤田氏の財産となっている。
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写真提供=埼玉西武ライオンズ