“ミスター社会人”佐竹功年が胸に秘める悔しさ アジア競技大会で狙う目標達成

2020.10.26

今年で社会人野球15年目。“ミスター社会人”こと佐竹功年投手(トヨタ自動車)は、2014年の「第17回アジア競技大会」から毎年のように社会人代表として侍ジャパンのユニホームに袖を通してきた。初代表は30歳という遅咲き。169センチ、72キロと小柄ながら、大事な試合で先発や抑えを任される頼れる存在として、社会人代表チームを引っ張っている。

写真提供=Full-Count

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30歳で社会人代表に初選出「嬉しさよりも責任感の方が大きかったですね」

 今年で社会人野球15年目。“ミスター社会人”こと佐竹功年投手(トヨタ自動車)は、2014年の「第17回アジア競技大会」から毎年のように社会人代表として侍ジャパンのユニホームに袖を通してきた。初代表は30歳という遅咲き。169センチ、72キロと小柄ながら、大事な試合で先発や抑えを任される頼れる存在として、社会人代表チームを引っ張っている。

 香川県の小豆島に生まれた佐竹選手は、土庄高校、早稲田大学を経て、2006年にトヨタ自動車に入社。エースとして都市対抗野球大会や社会人野球日本選手権で何度もチームを優勝に導いてきた。だが、実際に選ばれるまで、日本代表の一員としてプレーする姿をイメージしたことはなかったという。

「日本代表で印象に残っているのは、1999年のアジア野球選手権で平馬(淳)さん(当時・東芝)のサヨナラ打でチャイニーズ・タイペイに勝ち、シドニー出場に近づいた試合ですね」

 当時、日本代表はプロアマ混成チーム。まだ15歳だった佐竹選手は、テレビの前でその雄姿を目に焼き付けていた。だが、その後、日本代表はプロ選手のみの編成になり、世界のトップチームが集まる国際大会はワールド・ベースボール・クラシック™がメインとなった。そんな時代の流れもあり「自分はプロで活躍できるような選手ではない」と思っていた佐竹選手は、「日の丸を背負うなんてイメージは全然なかったです」という。

 侍ジャパン社会人代表に初めて選ばれたのは、2014年に韓国・仁川での「第17回アジア競技大会」だった。

「小さい頃から野球をやってきて、日本代表には全く縁がなかった。でも、初めて代表に選ばれたアジア競技大会は、社会人の中で一番重要な大会。日本の代表、トヨタの代表としてプレーするという素直に嬉しい気持ち、誇らしい気持ちとともに、日の丸を背負うプレッシャー、恥ずかしい成績は残せないという責任感もあった。私よりも年上の選手も何人かいましたが、もう結構いい年だったので、嬉しさよりも責任感の方が大きかったですね。選手村での生活でしたが、海外もほとんど行ったことがなかったので、右も左も分からないまま、あっという間に時が過ぎました」

 ライバルとなる韓国は、アジア競技大会ではプロ選手を揃えて優勝を狙いにくる。1位になれば兵役が免除になるため、本気だ。それだけに、プロを揃えた本気の韓国に勝って優勝することが目標だった。だが、この大会では準決勝でチャイニーズ・タイペイに敗れ、決勝進出ならず。佐竹選手は2試合に登板して計6回を無失点と好投したが、目標は達成できなかった。

「あの時は韓国と当たることもできなかったけど、決勝の韓国対チャイニーズ・タイペイ戦を見て、本気のフル代表の韓国を日本の社会人代表として倒したい、と思いましたね」

念願叶った韓国戦登板も…「勝てば金メダルに近づく試合で、全く通用しなかった」

 念願の韓国戦登板が叶ったのは2015年、台湾・台中での「第27回 BFAアジア選手権」だった。3連勝して迎えた韓国戦に先発し、7回無失点の好投も、試合は1-2でサヨナラ負け。大会も3位に終わったが、「いろんなボールのコンビネーションで投げる自分のスタイルでも、海外のチームとやりあえるんだと分かった」と自信を深めた。同時に、「アジア競技大会と比べてメンバーが落ちる韓国には負けられないというのもあった。アジア競技大会で勝たないと、メディアでもクローズアップされない」と実感。改めて、アジア競技大会での“打倒・韓国”の思いを強くしたという。

 2017年の「第28回 BFAアジア選手権」では守護神として日本を優勝に導いたが、あくまで照準は翌年に控えた「第18回アジア競技大会」だった。そして2018年、待ちに待ったアジア競技大会は、予選ラウンドを3連勝で突破。迎えたスーパーラウンド初戦で、佐竹選手はフル代表の韓国相手に先発するも、黒星を喫してしまった。

「勝てば金メダルに近づく試合で、全く通用しなかった。4年に1度の大会に照準を合わせていたつもりだったが、力を出し切れず、準優勝に終わってしまい、すごく悔しかった。改めて、4年に1度の大会に合わせて結果を出せる人たちはすごいと思いました」

 インドネシアのジャカルタで行われたこの大会。韓国戦は気温30度を超える中、正午の試合開始という過酷な条件だった。佐竹選手は4回2/3を投げ、3本塁打を含む11安打5失点で敗戦投手。翌日、チャイニーズ・タイペイに勝利した日本は2位で決勝に進み、再び韓国と対戦したが、またも0-3で敗れた。佐竹選手は中1日で8回に中継ぎ登板し、1イニングを無失点に抑えるも一歩及ばず。日本は3大会ぶりの銀メダルを手にしたが、優勝には届かなかった。

「五輪で野球種目がなくなって以来、社会人野球の存在意義としてアジア競技大会がある。兵役免除をかけて本気でくる韓国のスーパースターたちに勝つことで、世間的にも『社会人ってすごいんだ』と思われると思うので、4年に1度のアジア競技大会では勝ちたいという思いはあります」

“ミスター社会人”が感じた国際大会ならではの難しさとは…

 社会人野球の主な大会は一発勝負のトーナメントが多く、短期決戦に対する苦手意識はないという。だが、普段コンビを組んでいない他チームの捕手とのバッテリーは、2人の呼吸が熟成されづらい難しさがあるようだ。

「捕手とはほぼ初めての組み合わせで、本番で投げることになる。2015年のアジア選手権は同じトヨタ自動車の木下拓哉(現中日)だったので、普段通り、あうんの呼吸で投げられたが、それ以外の大会は、直前の練習試合でも2、3イニングしか投げられないので、いざ本番となると打ち合わせだけではどうにもならない部分もあります。試合は生きているので、ある程度長く組んでやっていないと分からないこともあります。自分はパワーピッチャーではなく、コンビネーションで抑えていくタイプなので、そういう難しさが国際大会にはありますね」

 また、韓国戦では日本の打者との違いも感じたという。「韓国の打者はスイングの速さ、捉える力があった。日本の打者だとファウルになるボールが、捉えられて本塁打になる難しさがありましたね」と振り返る。

 対戦相手のデータがほとんどない中、選手たちはチームスタッフが探した動画を見たり、チャイニーズ・タイペイと戦う韓国の試合を見て研究した。「チャイニーズ・タイペイ以外の国だと(投手の)レベルが全然違うので、韓国がチャイニーズ・タイペイと対戦している時しか参考にならない。国際大会の宿命ですね」と明かす。

 国際大会での経験を積み重ね、少しのことでは動じなくなったという佐竹選手だが、2019年に「FIBT-YOSHIDA CHALLENGE」で訪れたフランスでは、球場のグラウンドがマウンド以外すべて人工芝だったことに仰天した。「ホームプレートの周りもアンツーカーの部分も全部人工芝。ブルペンも人工芝で、ホームベースも置きベースでした」。アジア競技大会の舞台となったインドネシアでは、ブルペンの2レーンでそれぞれホームベースまでの距離が違い、片方は荒れて使えない状態だったため、自分たちで整備して使える状態にしたこともある。

「バスが時間通りに来ないのも日常茶飯事だと聞いたし、それも訓練。おかげで『国際大会だとこんなの当たり前だ』と思えるようになった。いい意味で鈍感になれました。ちょっとしたアクシデント、トラブルには動じなくなりましたね」

 2018年に韓国に敗れたことで、佐竹選手にとって侍ジャパンでの次なる目標は、2022年に中国・杭州で行われるアジア競技大会での韓国戦リベンジに定まった。現在37歳。最近では所属チームだけでなく、社会人代表でもチーム最年長となることが増えたが、まだまだ第一線から退くつもりはない。

「次(のアジア競技大会)は39歳。選ばれるかどうかは分からないですが、僕が選ばれなくても日本の社会人のレベルの高さを示すために韓国には勝ってほしいし、自分が出た時は勝ちたいなと思っています」

 4年に1度の舞台まで、あと2年。佐竹選手は悔しさを胸に秘め、来るべき時を静かに待っている。


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