「自分はまだまだレベルが低い」 千葉ロッテ・荻野が大学代表で知った“現在地”

2021.8.2

「実はいつどんな形で試合に出たかも、あまり覚えていないんです。日本のピッチャーがすごく良くて全然打たれずにレベルが高いなと思ったのは覚えていますね。僕自身は打撃も守備もそれほど目立つ方ではなかったので、足を生かした代走などで使ってもらえればいいと思いながらやっていました」

写真提供=Full-Count

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関西学院大学4年時に初の大学代表入り、日米大学野球に向かうも…

「実はいつどんな形で試合に出たかも、あまり覚えていないんです。日本のピッチャーがすごく良くて全然打たれずにレベルが高いなと思ったのは覚えていますね。僕自身は打撃も守備もそれほど目立つ方ではなかったので、足を生かした代走などで使ってもらえればいいと思いながらやっていました」

 2007年に開催された「第36回日米大学野球選手権」について、そう振り返るのは千葉ロッテの荻野貴司外野手だ。当時、関西学院大学4年で俊足の内野手として鳴らした荻野選手にとって、これが自身初の大学代表入り。だが、選ばれた時には喜びよりも「僕が行っていいのか?」という想いが先立った。

「やっぱり関東の大学で野球をやっている選手が多くて、甲子園で有名だった選手であったり、東京六大学リーグで有名な選手であったり。『あ、テレビで見ていた人だ』という印象で、自分はここでやっていけるのかという不安が大きかったです」

積み重ねで切り拓いた代表入りへの道「喜びよりも不安の方が大きかった」

 中学時代は硬式野球チームに入ったが、度重なる怪我でレギュラーにはなれず。勉強に力を入れて、進学校でもある郡山高校(奈良)に進んだ。硬式野球部は春夏合わせて12度の甲子園出場歴があるものの、在学時はなかなかベスト8の壁が破れず。3年生の夏にようやく決勝戦まで進むと、天理高校に3-8で敗れ、準優勝に終わった。

 世代のトップが集まる代表チームとはまったく無縁の野球人生が大きく方向を変えたのは、関西学院大学に進んでからだった。1年生の秋には遊撃手としてレギュラーの座に就くと、足を絡めた攻撃で相手投手を翻弄。4年の春季リーグでは、関西学生リーグの記録を23年ぶりに更新する17盗塁をマークする韋駄天ぶりを発揮。最後の秋季リーグを待たずしてベストナインに4度名を連ねるなど、全国的にも注目を集めるようになっていた。

 育成年代からエリート街道を突っ走ってきたわけではなく、コツコツと積み上げながら実力をつけてきたタイプ。控え目な性格と相まって、大学代表に選出された時に「喜びよりも不安の方が大きかった」と感じても不思議はない。

日米大学野球ではほぼ出番なし「かなり悔しかったのは、しっかり覚えています」

 だが、せっかく選ばれた大学代表で、ほとんど出番がなかったことが荻野選手の心に火をつけた。

「関西で野球をやっていて、それなりの結果が出ていたし、そこでは自信を持ってやっていました。でも、大学代表に選ばれて、周りの選手の実力やレベルの高さを目の当たりにした。代表ではほとんど試合に出ていません。それがかなり悔しかったのは、しっかりと覚えています。自分はまだまだレベルが低い。そう思ったことが社会人に進んでからも、プロ入りした今でも生きているのかなと思います」

 大学では通算80試合に出場し、打率.322、3本塁打、35打点、47盗塁の好成績で社会人野球の名門・トヨタ自動車に入社。1年目に外野手へ転向すると、その年の日本選手権大会では3番打者として打ちまくり、打率.409の好成績でチームを牽引。プロ入り後もチームメートとなる大谷智久投手(現・千葉ロッテ育成投手コーチ)とともに、投打の原動力としてチームを連覇に導いた。

 2009年のドラフトでは荻野選手が1位指名、大谷投手が2位指名で揃って千葉ロッテ入り。大谷投手は昨年限りで現役を引退して育成投手コーチに転身したが、荻野選手はプロ12年目を迎えた今も攻撃のカギを握る1番打者として活躍。球団記録を塗り替える12年連続2桁盗塁を達成したことは記憶に新しい。

悔しさをバネにプロ12年目も大活躍「今となってはすごくいい経験」

「大学代表に選ばれたことは、今となってはすごくいい経験をさせてもらったと思います」

 世代のトップが集う場で知った自身の現在地。もし大学代表で悔しさを味わっていなかったら、社会人野球での開花、そして息の長いプロ生活はなかったかもしれない。苦い経験をそのままにしておくのか、次のステップで生かすのかは自分次第。逆境に学び、生かす大切さを荻野選手は体現してくれているのかもしれない。

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