侍ジャパンを率いる小久保監督の素顔・前編 森脇浩司氏「だから疑う余地はない」

2016.6.6

トップ選手が集うチームを統率するのは決して簡単なことではない。それでも初の監督業を引き受けた男は日本球界の猛者たちをまとめ上げ、世界と戦い続けている。目指すは世界で最も強いチーム。今はその途上にいる。

写真提供=Getty Images

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森脇浩司氏から見る「小久保裕紀」

 今、日本球界で最も期待されている指導者の一人だろう。現役時代は福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツ、福岡ソフトバンクホークスでプレー。通算2057試合に出場、2041本の安打を放ち、打率.273、1304打点、413本塁打と輝かしいキャリアを残した。2012年に引退後、解説者を経て、2013年10月から野球日本代表「侍ジャパン」を率いている。小久保裕紀氏だ。

 トップ選手が集うチームを統率するのは決して簡単なことではない。それでも初の監督業を引き受けた男は日本球界の猛者たちをまとめ上げ、世界と戦い続けている。目指すは世界で最も強いチーム。今はその途上にいる。

 その挑戦に大きな期待を寄せているのが元チームメイトであり、今でも師弟関係が続く森脇浩司氏だ。青山学院大学から1993年のドラフト会議で、逆指名で福岡ダイエーホークスに入団。その新人時代から小久保氏には他を圧倒する「貪欲さ」があったという。先輩として、指導者としてその歩みを見守り続けてきた森脇氏はその人間性ゆえに侍ジャパンの監督としても成功を手にする可能性は高いとみている。森脇氏が見てきた小久保裕紀とは――。その素顔を森脇氏が語った。

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 小久保を一言で言うなれば「不器用な男」と表すのが一番だろう。その不器用さは今も変わっていない。本人もこれは認識している。だからこそ、どんなことに対しても貪欲であり謙虚である。

 これは先日夕食を共にした時の話だが、彼は現役の時と同様にメモ帳を持参していた。そして、気付きがあればすぐにメモをした。もちろん他の野球選手もその向上心、謙虚さは持っているが、小久保のそれは昔から他を圧倒している。

 私も現役時代に少しの時間だが共にプレーする機会があった。大学から逆指名でホークスに入団したが、同じ年に松永(浩美)という超一流の選手がFAで入ってきた。小久保の本職は三塁だったが、原(辰徳)さん(元読売監督)もそうだったようにチーム事情もあり二塁手としてスタートした。ここでも試合に出るための貪欲さは凄かった。

 若い頃は不安定だった守備を克服するため、スローイングの練習に随分と時間を費やしたものだ。お互いが現役の時、私のところにも何度か「教えてもらえないでしょうか」と来たことがある。最初に言ったのはこうだった。

挫折しかねない逆境もプラスに変える精神力

「これから現役の間にキャッチボールで何万球投げるだろう。絶対相手の胸に投げるんだという強い意志確認をして投げる習慣を身につけよう。その思いが強ければ心身に軸ができ、型ができる。そのためにはキャッチボールが最も重要な練習だと認識することだ」

 基本に勝るものはないことを彼は知っていた。その後、選手とコーチという関係で歩むにあたり、応用を手に入れるのにそれほど時間はかからなかった。それは、心身においての基本を身に付けていたこと、そして彼自身が不器用ゆえに継続するという能力に長けていたことが大きかった。

 ゲームにおいて守備に自信が持てないとタイムリーに投手のところにもいけない。常勝チームのリーダーは攻守の中心でなければならないというのが私の持論である。小さなことを地道に積み上げた彼のお陰で私の計画も1年半も前倒しとなり、派手なプレーこそなかったが立派に勝てる三塁手として存在してくれた。また、晩年一塁手として特にバントケースの彼の存在は相手にとっては脅威となった。地味な守備、走塁に真摯に取り組む姿勢、欠かすことない反復練習は後輩たちにとって素晴らしい手本となっていた。

 そして何よりも素晴らしいのは彼が持つキャプテンシーだ。

 我々プロ野球選手はファン、子供たちの心を動かす使命がある。それを現役の時も、引退してからも常に持ち続けている。心の中に宿っている彼の想いはどれだけ時を経ても変わることはなかった。プレーヤーとしては度重なる怪我に悩まされた。彼の座右の銘でもある「一瞬に生きる」。野球人生が終わるかもしれない大きな怪我を味わい、どん底を見たが、その度に不死鳥のごとく復活を遂げてきた。

 たくさんの人に支えてもらいながら400本塁打、2000本安打を達成し現在に至っている。それは彼の使命感の中で「投げ出すわけにはいかない」という強い思いがあったからこそだ。本来なら挫折しかねない大きな怪我をプラスに変える精神力が彼にはあったのだ。

今でも忘れられない思い出とは―

 プレーにおいての集中力の凄さは時々、他を困惑させるほどだった。多くの選手がその術を手に入れるべくレクチャーを求めていたのが懐かしい。口の悪い者は何かやっているのでは……と。私は彼が山にこもったり、色々なことにトライしたりと、そこに至るまでのプロセスを知っていた。プレーの中での集中力、グラウンド以外の時間でも自己を高めようとする貪欲さ――。不器用だからこそ彼は全てのことに興味を持ち、自身の力に変えていったのだ。そして、逆境でこそ真価が問われることも知っている。

 小久保とはたくさんの思い出があるが、一つ忘れることのできない出来事がある。

 あれはまだ私が現役時代、北九州で行われた試合後のことだ。小久保のバント失敗も敗因となる試合だった。私はドーム(現・福岡ヤフオク!ドーム)の室内練習場に戻って練習していると夜の11時を過ぎたころに小久保がマシン相手にバント練習を黙々とやり出した。

 その頃は私も同じ内野手として負けられない思いも多少なりともあったが、彼の姿を見ていると次第にその思いもなくなっていた。マシン相手では感覚も違うだろうと思い、「俺が投げてやるよ。そのほうがより実戦に近いだろう」と打撃投手を買って出ることにした。本来なら4番打者としてやっていく選手だが、彼はそういった小さなことを積み重ね、大打者へと上り詰めたのだ。いや、そういった小さなことを大切にしたからこそ大選手になったのだろう。

 あれは2000年、連覇した直後のことだった。「ホークスの小久保から日本の小久保になったのだ。これからは立場に相応しい苦労が伴う。受けて立てる自己をお互い築いて行こう」。そう声をかけたことを今でもよく覚えている。

 そして現在は侍ジャパンの監督を務めている。日本国民の期待、日の丸を背負う重圧など想像を絶するプレッシャーがこの先も待っているが、小久保が持つ使命感は誰よりも強く疑う余地はない。

【後編に続く】

◇森脇浩司(もりわき・ひろし)

1960年8月6日、兵庫・西脇市出身。55歳。現役時代は近鉄、広島、南海でプレー。ダイエー、ソフトバンクでコーチや2軍監督を歴任し、06年には胃がんの手術を受けた王監督の代行を務めた。11年に巨人の2軍内野守備走塁コーチ。12年からオリックスでチーフ野手兼内野守備走塁コーチを務め、同年9月に岡田監督の休養に伴い代行監督として指揮し、翌年に監督就任。178センチ、78キロ。右投右打。

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