「WBCのように厳しい戦いが増えてくる」 元女子代表・只埜榛奈が考える女子野球の近未来

2025.12.8

2024年限りで現役を退き、2025年から女子硬式野球クラブチームの東海NEXUSで監督を務める只埜榛奈さん。2023年の「第3回BFA女子野球アジアカップ」(以下アジアカップ)で代表デビューを飾り、翌年には「第9回WBSC女子野球ワールドカップ」(以下W杯)で日本の7連覇に大きく貢献した。堅実な守備とつなぐ打撃が定評の内野手で、プロとして6年プレーするなど経験豊富だが、代表として国際大会を戦った経験は自身のキャリアをより幅広いものにしてくれたという。

写真提供=Full-Count

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2023年から代表入りした不動の二塁手、第9回W杯では7連覇の偉業を達成

 2024年限りで現役を退き、2025年から女子硬式野球クラブチームの東海NEXUSで監督を務める只埜榛奈さん。2023年の「第3回BFA女子野球アジアカップ」(以下アジアカップ)で代表デビューを飾り、翌年には「第9回WBSC女子野球ワールドカップ」(以下W杯)で日本の7連覇に大きく貢献した。堅実な守備とつなぐ打撃が定評の内野手で、プロとして6年プレーするなど経験豊富だが、代表として国際大会を戦った経験は自身のキャリアをより幅広いものにしてくれたという。

 初めて代表選出されたのは2021年、第9回W杯出場メンバーとしてだった。当初は2020年に開催予定だったがコロナ禍の影響により延期。だが、混乱は想像以上に長引き、大会は再延期を余儀なくされたため、この時の代表デビューは“幻”に終わっていた。

 女子代表がようやく国際大会に出場できたのは、その2年後に開催されたアジアカップだった。再び代表入りした只埜さんは、ここで晴れて代表デビュー。6試合中5試合に「6番・二塁」で先発出場し、打率.727の好成績をマークすると、同年9月に広島が舞台となった「第9回W杯・グループB」でも5戦全てに二塁手として先発出場し、ファイナルステージ出場を決めた。

W杯ファイナルステージでの緊張は「ひと味違った」

 2024年7月28日にカナダ・サンダーベイで開幕した「第9回W杯 ファイナルステージ」。7連覇がかかる大会中、只埜さんが最も緊張したのは試合開始前にある国歌斉唱の時だったという。

「一番緊張したのは、両国の国歌斉唱で整列した時。すでにその前のウォーミングアップから始まってはいますが、いざ本当にスイッチが入る瞬間、『あ、始まるんだ』と実感するのが整列した時で、一気に緊張が高まりましたね。ピンチの場面の守備や、チャンスの場面の打席は何度も経験してきたけれど、それとはひと味違ったプレッシャーのようなものをファイナルステージでは感じました」

 かつては日本が世界を圧倒していたが、最近では海外チームが急激にレベルを上げている。この大会でも日本は初戦でチャイニーズ・タイペイに4点を許し、2戦目にはカナダを相手に1点差で勝利と、簡単には勝たせてもらえず。そして、ついに5戦目には米国に3-4で敗れ、W杯での連勝は39でストップした。

「カナダに向かう前から、世界のレベルが上がっているという話は聞いていて、動画でも確認していました。ただ、守備の技術や一つ一つの細かい技に関しては、日本がピカイチだと改めて感じたところです。その中でも、パワーや身体能力に関しては、米国やカナダは凄まじいものを持っている。そこに技術がプラスされると、男子のWBC(WORLD BASEBALL CLASSIC™)のように、もっと厳しい戦いが増えてくるだろうとも感じました」


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熱心に応援してくれた祖父への思い「代表のユニホームを着ている姿を見たい」

 米国との再戦となった決勝は、日本の打線がつながった。3回に川端友紀内野手の2ランなどで4点を先制すると、4回に3点、5回に4点を加え、11-6と打ち勝ち、大会7連覇という偉業を成し遂げた。この時、只埜さんは代表チームの真髄に触れた気がしたという。

「とにかく優勝という、もうこれしかない目標に全員で向かっていく姿勢というのを、フィールドにいてもベンチにいても、すごく感じました。1人1人、技術もあるし、やっぱり上手な選手の集まりではありますが、立場や年齢は関係なしに、一つの勝ちに対して全員で向かっていくがむしゃらさ。あれは本当に素晴らしいものだったし、自分のチームにも伝えていきたいと感じた部分でした。厳しい試合もありましたが、広島から7連覇に向かう思いの強さを感じていたので、不思議と負ける気はしなかったですね」

 7連覇への思いに加え、只埜さんはもう一つ、別の思いを持って戦っていた。それは、誰よりも熱心に野球を応援してくれた祖父への思いだ。

「小学生で野球を始めた時から、家族の中で誰よりも熱心だったのが祖父なんです。プロ野球に挑戦したのも祖父の思いを叶えたいと思ってのことでしたし、日本代表のユニホームを着ている姿を見たいと言われたこともあって、代表入りを目標にしたところもあります。でも、W杯の開催が決まった年に病気で亡くなってしまい、ユニホーム姿を見せることはできなかった。なので、カナダまで応援に来てくれた父が祖父の写真を持って、応援してくれていました。代表ユニホームでプレーする姿を見せられなかったのが心残りです」

監督に転身後も生きる代表での経験「引き出しの一つに」

 今年から立場を変え、指導者となった只埜さん。指導者になって初めて見える景色や理解できる視点があるという。

「こんなにも選手目線と指導者目線とでは違うものなんだ、と感じています。指導者になってみて『あの時、監督はこういう目線からこういう風に選手のことを考えていたのか』と、ようやく理解できるようになりました。どう伝えれば選手は理解できるのか、選手にとってプラスになる良い方はなんだろう、と考える時、侍ジャパンでの経験は引き出しの一つになっていますし、チーム作りをする上でも参考になっているので、本当に感謝しています」

 小学4年生で飛び込んだ野球という世界。高校では一時、ソフトボールに転向しながら、トライアウトを受けて、卒業後にはプロ野球選手となった。プロで6年、クラブチームで5年プレーし、今では監督としてチームを率いている。

「自分から好きで始めたわけでもないし、プロに入ってから辞めようと思ったことも何度もあったので、正直ここまで野球にハマっている自分にビックリです。ただ、何か感じるものがあるから辞められない。離れられないんですよね(笑)」

 自分を虜にした「何か」の正体を探りながら、これからも指導者として女子野球の未来のために尽力していく。

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写真提供=Getty Images, Full-Count

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