先輩から後輩へつないだ捕手の知恵 プロ19年目・炭谷銀仁朗を支える侍ジャパンで得た経験
埼玉西武の炭谷銀仁朗捕手は、2012年11月に実施された「侍ジャパンマッチ2012『日本代表VSキューバ代表』」で初めてトップチームの国際試合メンバーに選ばれた。シーズンオフということでメンバーは若手が主体。炭谷選手は第1戦で先制ソロを放つなど存在感を示し、2013年の第3回WORLD BASEBALL CLASSIC™(WBC)、2017年の第4回WBCのメンバー入りを果たした。貴重な国際大会の経験は自身の野球人生において「非常にプラスになりました」と振り返る。
写真提供=Full-Count
初の国際強化試合は2012年11月「涌井さんと一緒に行動」
埼玉西武の炭谷銀仁朗捕手は、2012年11月に実施された「侍ジャパンマッチ2012『日本代表VSキューバ代表』」で初めてトップチームの国際試合メンバーに選ばれた。シーズンオフということでメンバーは若手が主体。炭谷選手は第1戦で先制ソロを放つなど存在感を示し、2013年の第3回WORLD BASEBALL CLASSIC™(WBC)、2017年の第4回WBCのメンバー入りを果たした。貴重な国際大会の経験は自身の野球人生において「非常にプラスになりました」と振り返る。
それまで東日本大震災復興支援の特別試合として日本代表は経験していたが、強化試合として組まれた国際戦への選出はキューバ戦が初めてだった。
「はっきりとは覚えていないですけど、嬉しかったのは間違いないです。自分で大丈夫かな、という思いもあったのかもしれませんが、あまり記憶していないということは、そこまで心配はしていなかったんじゃないですかね」
埼玉西武でチームメートだった、1歳上の涌井秀章投手の存在が大きかった。「涌井さんと一緒に行動していました。涌井さんは交友関係が広いので、ほぼ初めての代表でしたけど1人ぼっちになることもなく、チームに溶け込めることはできたと思います」と頼りにした。
第1戦に「8番・捕手」でフル出場すると2回の初打席で先制ソロを放ち、7回には無死二塁から犠打を決めて好機を演出した。試合は2-0で勝利。炭谷選手は全得点に絡み、守っては7人の投手の良さをうまく引き出して強力打線を完封リード。チームの勝利に大きく貢献した。
WBCは「360度、侍ジャパンを応援する人で埋まっていた」
翌年には第3回WBCのメンバー入りを果たした。キャッチャー陣には当時33歳でチームの主将となった阿部慎之助捕手(読売)、2番手には36歳のベテラン、相川亮二捕手(東京ヤクルト)がいた。25歳だった炭谷選手は「国を背負って、チームを代表して戦うということに当然、プレッシャーはありました。でも、僕はメインの立場ではなかったので、普段やれない方々と一緒に野球ができるというワクワク感が大きかったのを覚えています」。
国際大会でユニホームを着て立ったグラウンドからの“景色”は今でも覚えている。
「360度、侍ジャパンを応援する人で埋まっていたので、そこは感動しましたね」
リード面において、各国の打者はほとんどが初対戦。すべてのデータを頭に叩き込むのは大変な作業となる。そこで捕手3人だけのサインも作っていたという。この経験は後に第4回WBCメンバーに選ばれた際、小林誠司捕手(読売)、大野奨太捕手(北海道日本ハム)との間でも同様にサインを作って生かしていたという。
2013年のWBCで3連覇を期待された侍ジャパンは、準決勝でプエルトリコに敗れた。炭谷選手の出場機会は3試合で3打席に立っただけ。それでも「阿部さんや相川さんから学ぶことが多かった。僕の野球人生において、非常にプラスになりました」と振り返った。
2015年には「第1回 WBSC プレミア12」に出場。ここでは主将を務めた嶋基宏捕手(東北楽天)、中村悠平捕手(東京ヤクルト)とともに扇の要となり、チームを牽引。およそ1年半後に迫る第4回WBCへの試金石とされた大会で3位となった。
第4回WBCは代替での緊急招集「流れを変えたろ」
迎えた2017年の第4回WBC。当初はメンバー入りしていなかったが、負傷した嶋選手の代替として緊急招集された。「確か2月の終わりとかだったと思います」。球団から呼び出され、侍合流を通達された。
「やっぱり奮い立つものはありましたね。それまで侍ジャパンがソフトバンクや台湾との試合で、あまりいい結果を出せていなかったんです。僕自身、途中からの合流で失うものもないので『自分がいって流れを変えたろ』くらいの気持ちでいったのを覚えています。呼ばれたことがプラスにしか働かなかったですね」
この大会も日本は最終的に準決勝で米国に敗れ、世界一奪還はならなかった。だからこそ3大会ぶりに日本が優勝した2023年の第5回大会は「ものすごい盛り上がりでしたし、試合自体もすごくて、現役選手として羨ましさはありましたね」と語った。
ほんの少しの“嫉妬心”も抱いた炭谷選手だったが、日の丸を背負って過ごした日々は、長いキャリアを支える大きな経験となっていることは間違いない。
()内の所属球団は当時のもの
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