復興支援試合で実感した「野球の力」 坂口智隆氏が一度きりの侍ジャパンで得た使命感
大阪近鉄、オリックス、東京ヤクルトで通算1526安打を放ち、昨年限りで現役を引退した坂口智隆氏。アマチュア時代を含め、野球人生で一度だけ日の丸を背負ったのが、2012年3月10日に東京ドームで行われた「東日本大震災復興支援ベースボールマッチ」だ。被災者を招待した“特別な試合”で大歓声を受けてプレーし、野球の持つ力を改めて実感したという。
写真提供=Full-Count
2012年の「東日本大震災復興支援ベースボールマッチ」で初の侍ジャパン入り
大阪近鉄、オリックス、東京ヤクルトで通算1526安打を放ち、昨年限りで現役を引退した坂口智隆氏。アマチュア時代を含め、野球人生で一度だけ日の丸を背負ったのが、2012年3月10日に東京ドームで行われた「東日本大震災復興支援ベースボールマッチ」だ。被災者を招待した“特別な試合”で大歓声を受けてプレーし、野球の持つ力を改めて実感したという。
たった1試合。それでも、野球日本代表「侍ジャパン」のユニホームに袖を通した意味は大きかった。2011年3月に起きた東日本大震災で被災した地域の復興支援を目的に、社会人、大学の選抜チームと台湾代表が東京ドームに集結。この時、前年にオリックスで4年連続のゴールデングラブ賞、最多安打のタイトルを獲得していた坂口氏は侍ジャパンのメンバーとして招集された。
「小中高を含め、初めての日の丸を背負った。1日だけの特別な試合でしたが、どんな形でも初めての日本代表は本当に嬉しかった。勝ち負けは別ものとして、見てくださるファンの方に全力プレーを届けることが僕たちの使命だったと思います」
左手首を負傷中に侍ジャパン選出も「断る理由はない」
試合が行われたのは春季キャンプを終え、シーズンに向けて最終調整を行うオープン戦の期間。坂口氏は当時プロ10年目で不動の1番打者として君臨していたが、オープン戦で左手首に死球を受けてしまい、リハビリの真っ只中だった。復帰目前での招集となったが、「断る理由はない。個人としてもチームとしても、この試合が持つ意味は分かっていた」とテーピングで手首を固定し、強行出場することになった。
台湾代表との試合では4回から代打で途中出場すると、6回1死一塁で迎えた第2打席で左前打を放ってチャンスメイク。その後は最後までグラウンドに立ち続けて2打数1安打1四球の活躍。日本は9-2で勝利した。3万5000人を超える大観衆から注がれる声援を浴びながら、野球ができるのは当たり前ではないことに気付かされた。
「味わったことのない緊張感でした。野球の試合でどれだけの人を勇気づけられるかは分からないが、僕たちは一生懸命プレーすることしかできない。球場に来てくれた被災者の方々、テレビで見ている方々にとって、ちょっとした息抜きになればいい、『スポーツっていいな』と思ってくれればいいなと。(この試合を経験して)野球ができることに対する感謝の気持ちは、より強く持つようになりました」
同年はシーズン中に右肩肩鎖関節脱臼と靭帯断裂の大怪我を負い、長期離脱を余儀なくされた。その後は本来の打撃を取り戻せず、2016年には東京ヤクルトへ移籍。常に全力プレーを怠らない“不屈の魂”でレギュラーの座を掴み、完全復活を果たすと、2021年にはセ・リーグ優勝と日本一も経験した。
憧れ続けたJAPANのユニホームはリハビリを支えてくれた親友にプレゼント
日の丸を背負ってプレーしたことで、自らの野球観はより磨かれた。憧れ続けたJAPANのユニホームは現在、手元にはない。野球人生を左右する大怪我を負った際、リハビリに付き添ってくれた親友にプレゼントしたという。「辛かった時を支えてくれた人に、どうやって感謝を伝えたらいいか。僕の中で特別で1つしかないユニホームを渡そうと(思いました)」。侍ジャパンで戦った“勲章”は心の中で輝いている。
引退後は解説者として一歩離れた場所から野球を見る機会が増え、侍ジャパンが3大会ぶりに世界一を奪還した「2023 WORLD BASEBALL CLASSIC™」はOBとして声援を送った。他競技にも自ら足を運んで体験を重ねているが、野球をはじめとする様々なスポーツが人々に元気や勇気を与えることを改めて実感している。
「今は言葉で伝える側になった。見ている人にも、プレーしている人にも、野球の楽しさや深さを伝えられる人間になれれば。野球界の未来に繋がるよう、恩返しをしてきたい」
侍ジャパンのユニホームに袖を通したのは、わずか数時間のこと。それでも坂口氏にとっては人生を変える、かけがえのない瞬間だった。その経験を生かしながら、今後も解説者として後輩たちの活躍を見守り続けていく。
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