女子代表は「思いを発散できた」場所 元高校球児・片岡安祐美を支えた仲間の存在

2021.6.28

小学生を中心に年々、競技人口を増やしている女子野球。チームメートとともに白球を追いかける選手たちが「いつの日か」と憧れるのが、侍ジャパン女子代表としてプレーすることだ。今年3月に予定されていた「第9回WBSC女子野球ワールドカップ」はコロナ禍により延期となったが、日本代表は現在、大会6連覇中。世界でも圧倒的な強さを誇る存在となっている。

写真提供=Full-Count

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2008年愛媛・松山でマドンナジャパンW杯6連覇の第一歩に貢献

 小学生を中心に年々、競技人口を増やしている女子野球。チームメートとともに白球を追いかける選手たちが「いつの日か」と憧れるのが、侍ジャパン女子代表としてプレーすることだ。今年3月に予定されていた「第9回WBSC女子野球ワールドカップ」はコロナ禍により延期となったが、日本代表は現在、大会6連覇中。世界でも圧倒的な強さを誇る存在となっている。

 千里の道も一歩から。日本代表のワールドカップ連覇記録がスタートしたのは、2008年に愛媛・松山で開催された前身大会「第3回IBAF女子野球ワールドカップ」からだった。この時、マドンナジャパンの一員として優勝に貢献したのが、2011年から社会人硬式野球クラブチーム・茨城ゴールデンゴールズを率いる片岡安祐美監督だ。この大会は「初めて日の丸の重みを感じた」舞台として、片岡監督の心に強く印象づけられている。

高校球児となるが公式戦には出場できず…父が教えてくれた日本代表の存在

 生まれ育った熊本で野球を始めたのが小学3年生の時。内野手として男子に負けない活躍を見せ、地元中学の軟式野球部では「2番・二塁」として県大会ベスト8まで勝ち進んだ。中学3年生の時、父に連れていってもらった甲子園に感動し、日本高等学校野球連盟の規則では女子の公式戦出場は不可能だと承知しながら、同時に規定改正に淡い期待を寄せながら、熊本商業高校へ進学。硬式野球部に入部すると、男子選手と一緒に練習に励んだ。

「高校球児として甲子園を目指すけれど公式戦には出られない。練習試合も相手チームの監督さんの許可がなければ出られませんでした。そこで『高校3年間での目標にするように』と父が調べて教えてくれたのが、女子野球日本代表の選考会でした」

 初めて選考会に参加したのは、高校球児の道を目指すと決めた中学3年生の冬。舞台は東京・駒沢オリンピック公園内にある改修前の硬式野球場だった。「15歳の時に受けた選考会の雰囲気、今でもすごく覚えています」と、当時の衝撃を振り返る。

「あんなにたくさんの女子選手と会ったのは初めて。『えっ、日本にこんなに仲間がいるの?』と衝撃を受けました。約140人が受験して14人が合格という狭き門。親からとりあえず目立つように言われていたので、人一倍元気を出してやりました。初めて見る世界で、選考会ではありましたが楽しかったですね。日本にこれだけ女子選手がいるなら、世界にはもっといるんじゃないか。世界にいる女子選手に会ってみたいと思ったのを覚えています」

衝撃を受けた海外選手のパワー「自分の知らない凄い世界が…」

 15歳にして日本代表に抜擢されると、同年に米国・フロリダで開催された「第2回女子野球世界大会」に出場し、米国、カナダ、オーストラリアと対戦。体格やパワーの違いを目の当たりにした。

 MLBタンパベイ・レイズの本拠地、トロピカーナ・フィールドでの決勝戦。対戦したオーストラリアの4番打者は、左打ちながら約113メートルある左中間フェンスにワンバウンドで直撃する鋭い打球を飛ばした。

「本当に信じられなかったですね。自分の知らない凄い世界がまだまだあった。その決勝で負けたんですが、私のせいだと思っています。調子はすごく良かったけれど、打球が全部守備の正面をついてしまって。私にもっと力があって打球があと10センチ上がっていたら内野手の頭上を越えたかもしれない。悔しかったし、もっと練習をしないといけないと思いました」

 初めての国際大会では驚きや悔しさも感じたが、何よりも試合で思いきりプレーする楽しさを味わった。高校では試合の出場機会が限られ、自分の成長をはかる場が少ない。だが、日本代表として活動する時は、試合はもちろん、合宿でも特守・特打をする機会に恵まれ、自分らしく思いきり野球に打ち込めた。「思いを発散できましたね。高校に戻ってからも、この練習ではここを意識しようと考えられるようになりましたし、日本代表という存在があったから、自分の中で野球に対する高いモチベーションを保つことができたと思います」と話す。

初めて感じた日の丸の重み、試合前のルーティンで「覚悟を決めよう」

 初選出から3大会連続で女子野球世界大会に出場していたが、「高校生の時は正直、戦う舞台が日本でも世界でも自分がやる野球は変わらないと思っていたので、あまり緊張もしなかったんです」と明かす。その気持ちに変化が生まれたのが、2008年「第3回IBAF女子野球ワールドカップ」だった。

「代表を一度落ちた後、復帰したのがこの大会。自国開催だったこともあると思いますが、日の丸を背負う重みを初めて感じましたね。たくさんの人が応援してくれて、メディアにも注目されて、スポンサーさんもたくさんついてくれて、男子と同じ縦縞のユニホームを着られる。あの時は緊張もしたし、怖さもあったし、それに打ち勝たないといけないと思う自分もいました」

 緊張や怖さを抱えたまま試合に臨むことはできない。「覚悟を決めよう」。そう思って大会中に欠かさずしていたのが、ダグアウトに飾られた日の丸を触ってから試合を迎えることだった。

「みんなのメッセージが書かれた日の丸が飾ってあったので、試合前に必ず触って『今からゲームセットまでは怖さを払拭してやるしかない。いくぞ!』と覚悟を決めていました」

 その結果、日本は2連覇中だった米国を準決勝で下し、決勝ではカナダに勝利して初優勝。ここから破竹の大会6連覇が始まった。

「2度と同じことはしない」監督として選手に伝える実体験

 日本代表として積み重ねた経験は、その後の選手生活はもちろん、監督としてチームを率いる際にも生きている。自身の体験談を交えながら選手に伝えているのは「覚悟を決める大切さ」だ。

 2003年、オーストラリアが舞台となった「第3回女子野球世界大会」での一幕。一打サヨナラの絶好機で回ってきた打席でど真ん中のカーブに手が出ず、見逃し三振に倒れた。試合は運良く延長戦へ。再び回ってきたサヨナラのチャンスでは「2度と同じことはしない」と覚悟を決めた。積極的に初球を振り抜くと、打球はセンター前へ転がる決勝打となった。

「失敗したらどうしよう、と思う選手の気持ちはすごく分かる。でも、見逃し三振よりバットを振って3球三振の方がまだチャンスはあるし、何もしないで終わったら一生後悔すると思うんです。覚悟を決めた時、人は絶対に強くなれる。日本代表はそういうことを教えてくれた場でもありました」

着実に競技人口を増やす女子野球「これからますます楽しみ」

 ゴールデンゴールズの監督として活動しながら、女子野球のさらなる普及にも尽力。3月には「女子野球タウン」となった広島・廿日市市で野球教室に参加し、次世代のスターたちと交流を深めた。自治体が積極的にサポートするなど、女子野球に対する社会の理解が深まりつつあることに喜びを感じている。

「以前は『女の子が野球をしてもいいのかな』と思いながらやっていた選手がすごく多かったのですが、今では『堂々とやっていいんだよ』という社会になってきました。気持ちよくプレーできているから、女子選手たちは自分の持っている力を発揮できている。プラス、女子野球を広めたいという使命感があるからこそ、日本の女子野球は強くいられるし、競技人口が増えているんだと思います。これからますます楽しみですね」

 男子の野球離れが進み、競技人口が減少傾向にあるとされる中、その数を着実に増やしている女子選手たちの存在は、これから日本球界がさらなる発展を遂げる過程で大きな役割を果たすことになりそうだ。


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衣装協力=G-STAR RAW

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