米国、キューバでの濃厚な3週間 元オリックス・大引啓次氏が大学代表で得た気づき
オリックス、北海道日本ハム、東京ヤクルトの3球団でプレーした大引啓次氏は2006年、法政大学4年次に大学日本代表の一員に選ばれ、米国で行われた「第35回日米大学野球選手権」と、キューバで行われた「第3回世界大学野球選手権」を戦った。世界の野球を知った経験はその後のプロ生活に生かされ、さらに指導者を目指す今も指針となっている。
写真提供=Full-Count
大隣、岸、長野…プロ候補生がずらり並んだ「ドリームチーム」
オリックス、北海道日本ハム、東京ヤクルトの3球団でプレーした大引啓次氏は2006年、法政大学4年次に大学日本代表の一員に選ばれ、米国で行われた「第35回日米大学野球選手権」と、キューバで行われた「第3回世界大学野球選手権」を戦った。世界の野球を知った経験はその後のプロ生活に生かされ、さらに指導者を目指す今も指針となっている。
日の丸をつける経験は、これが2度目だった。住吉大和川シニア(大阪)でプレーしていた中学3年生の時、市の選抜チームに入りハワイで親善試合を戦う機会があった。「紺色のユニホームで、アトランタ五輪とかで見たデザインだったのを覚えています。『うわっ、日の丸や! テレビで見たのと同じだ』とね」。野球少年時代の忘れられない経験だ。
大学代表でプレーする機会が回ってきたのは4年生の時。当時の大引氏は、東京六大学の通算安打記録を更新するかという勢いで打ちまくっていた。実は2年生の時も代表候補入りしたことがあり、「いつかは自分も……」という思いもあった。ついに叶った代表入りに「高いレベルのチームでやれて嬉しいという気持ちがありました。自分より上の選手ばかりで、大学のドリームチームの一員として戦う喜びがありました」と振り返る。
チームメートには近畿大学の大隣憲司投手(現・千葉ロッテ2軍投手コーチ)、東北学院大学の岸孝之投手(現・東北楽天)、東洋大学の永井怜投手(現・東北楽天育成投手コーチ)、日本大学の長野久義外野手(現・広島東洋)、駒澤大学の野本圭外野手(元中日)ら、のちにプロ入りする選手がひしめいた。法政大学で“史上最高の主将”と呼ばれるほど優れたリーダーシップで知られた大引氏には、これほどの選手が集まった代表でも当然のように「主将」の2文字がついてきた。
「打って一塁まで全力で走らなかったら、選手同士で叱っていました。選手同士のミーティングもよくしていたし、厳しくはしていたつもりです」。自分たちは日本代表。勝たなくてはダメだという責任をヒシヒシと感じていた。
のちのMLB最多勝2投手と対戦「体の後ろでバットに当たって…」
7月23日に渡米すると、ノースカロライナ州ダーラムを皮切りに、バスで移動しながらの5連戦。初戦に米国の先発を務めたのは、のちの2012年にMLBタンパベイ・レイズでア・リーグ最多勝に輝くデビッド・プライス投手だった。「1番・遊撃」で先発した大引氏は、チームに勢いをつけようと初球から振っていくと決めていたという。ところが……。
「真っ直ぐが来たのに、(捕手よりの)体の後ろでバットに当たって、一塁側へのファウルですよ。めちゃめちゃ差し込まれて、タイミングどころじゃない。あんな経験は初めてでした」と苦笑する。
2打席目は右翼へ大きなフライを打ったが、これも真っ直ぐのつもりで振ったバットにタイミングが合ったのはチェンジアップだった。「スピードガンに100(マイル=約160キロ)とか出るんですよ。『何キロだ?』って話をしていました」。世界の同世代には、とんでもない才能がいると知った。
日本はこの試合に4-2で勝利したが、第2戦から3連敗。そして迎えた第5戦は延長12回で引き分け、試合終了が日付をまたぐ大熱戦となった。米国の先発は、2015年にシカゴ・カブスでナ・リーグ最多勝を獲るジェイク・アリエッタ投手。8回に両軍2点ずつを取り合っただけという緊迫した展開で終盤を迎えた。
「2死満塁だったと思います。米国が後攻で一打サヨナラというピンチ。速いゴロがショートに飛んできたのを上手くさばけた時に、『ああ、日本のプロでもやれるのかな』とちょっと自信が芽生えましたね」
打撃はさっぱり。角度のあるボールに太刀打ちできなかったと言うが、自慢の遊撃守備ならプロでもできるという自信を深めていた。
キューバでまさかの英語による選手宣誓、実感した国際情勢
この年の大学代表は、続いてキューバで行われる世界大学野球選手権への出場が決まっていた。7月31日、チームは米国からメキシコ経由でキューバへ移動した。到着してみると、荷物が1/3ほど届いていない。食事も生野菜を食べることは禁じられ、「変な話ですけどお腹を下しっぱなしです。水が合わなくて……」。この大会、日本はキューバに2度敗れるなどして4位に終わった。
野球と社会の関係に目が向く経験もした。この時、英語での選手宣誓を任されたのは、日本代表主将の大引氏。米国も出場していたが、キューバとは国家同士の関係が良くなかったため、前面に出ることはなかったからだ。大役を仰せつかった大引氏は必死で英文を暗記。当日、ユニホームのポケットに忍ばせたカンニングペーパーに、出番はなかった。「意地でしょうね」。あまりに濃い3週間だった。
世界の野球を肌で感じた経験は、プロ入りしてからも生きた。オリックス時代にチームメートだったアーロム・バルディリス内野手など、家族ぐるみで付き合う選手ができた。時に孤立しがちな外国人選手と積極的に交わり、チームの一員に迎えようとする姿勢は、プレーした各球団の通訳から感謝されたという。
指導者を目指し大学院へ入学 いつか教え子を侍ジャパンに
大引氏は大会後、ドラフト3巡目指名でオリックス入り。守備が定評の遊撃手として鳴らした。2013年には北海道日本ハム、2015年には東京ヤクルトへと移籍し、2019年を限りに引退。通算1288試合出場、1004安打という立派な成績を残した。引退後は指導者を目指し、この春から日本体育大学の大学院に籍を置くと同時に、同大硬式野球部のコーチにも就任した。
大学代表として過ごした3週間で得た気づきがある。
「あの時は日本“代表“という意識がとても強かった。その意識は普段も必要だと思うんです。大学なら大学の代表として、(試合で)よそ行きの野球をやってはいけない。泥臭くやることが大事になります」
現役時代に試合で見せ続けた姿勢を、今度は指導者として後進に伝えていく。そして目指すは、教え子を侍ジャパンへ送り出すことだ。
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