「自分にとって一番の財産」 千葉ロッテ・井口監督に刻まれたアトランタの経験
日本中を震わせた熱闘から、はや四半世紀が経つ。1996年8月2日、米国・アトランタでのこと。当時“オールジャパン”と呼ばれていた野球日本代表は、前日の準決勝で難敵・米国に11-2と圧勝し、決勝でのキューバ戦に臨んだ。
写真提供=Full-Count
大学4年生で日本代表入り、銀メダル獲得に大きく貢献
日本中を震わせた熱闘から、はや四半世紀が経つ。1996年8月2日、米国・アトランタでのこと。当時“オールジャパン”と呼ばれていた野球日本代表は、前日の準決勝で難敵・米国に11-2と圧勝し、決勝でのキューバ戦に臨んだ。
日本は序盤、アマチュア世界最強の呼び声高いキューバに6点を許したが、5回に新日本製鉄君津(現・日本製鉄かずさマジック)の松中信彦内野手が放った満塁ホームランで同点。しかし、6回から毎回失点を重ねて9-13で敗れ、金メダルには一歩及ばなかった。それでも予選リーグで3連敗し、崖っぷちに立たされた状態からの銀メダル獲得に、ファンは惜しみない拍手を送った。
アマチュア選手のみで結成された代表メンバー20人は大半が社会人選手だったが、大学生も4人含まれていた。その1人が、青山学院大学4年生の井口資仁内野手(現・千葉ロッテマリーンズ監督)だった。
東都大学リーグ史上唯一の3冠王、同最多となる通算24本塁打など輝かしい記録を打ち立て、1996年ドラフト1位(逆指名)で福岡ダイエー(現・福岡ソフトバンク)入りを果たすと日本一を2度経験。2005年にMLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、正二塁手として世界一に貢献した。2009年にNPB復帰。千葉ロッテの主力として2010年の日本一に貢献し、2017年を最後に現役引退。21年間で日米通算2254安打、295本塁打、1222打点、224盗塁など、輝かしい記録を積み上げた。
そんな井口氏にとって、プロ入り直前にアトランタで味わった日本代表経験は、長い野球人生においてどんな位置づけにあるのだろうか。
その後の野球人生に大きく影響「自分のスキルを上げるためのチャンスとも言える場だった」
「今思えば、あの大会に出たからこそ、メジャーに挑戦したいと強く願うようになりました。大学に入った時から日本代表になることを目指していたし、4年生になる年にアトランタがあることは分かっていた。とにかくオールジャパンのユニホームを着て戦い、プロに行く、というのが大学時代の目標でした」
大学1年から大学代表に選ばれると、2年では日本代表候補に名を連ねるようになった。「代表の一員として世界を経験できたのは、自分にとって一番の財産。結果は別として、いろいろな国の選手たちとプレーできて、もっとこういうところを吸収したいと感じることが多かった。自分のスキルを上げるためのチャンスとも言える場だったんじゃないかと思います」と振り返る。
アトランタではキューバと戦った決勝戦以上に、準決勝での米国戦が強く印象に残っているという。当時の米国代表は、メジャー入りが決まっている将来有望な大学生を中心に構成されていた。
「大学代表で戦ってもオールジャパンで戦っても、米国にはやられっぱなしのイメージ。アトランタでも予選は7回コールド(5-15)で負けていました。その中で迎えた準決勝は11-2と大差で勝つことができた。開催国ということもあって米国の応援は凄かったし、当時はキューバも負かせるんじゃないかというくらい強かったので、あの試合に勝てたのが一番。あれでメダルも確定しましたし」
メジャー移籍後に感じたアトランタでの縁、キューバ代表右腕と世界一を経験
この米国戦で先発マウンドに上がったのは、“ミスター・アマチュア野球”こと日本生命の杉浦正則投手。金メダル獲得に生涯を捧げる28歳ベテランの力投を、打線は5本塁打で大きく援護。井口氏も8回にダメ押しのホームランを放ち、天に拳を突き上げたが、「あれ、打ちましたっけ?」と照れ笑いで煙に巻く。
メジャー移籍後、遠征で思い出の地・アトランタを訪れたことがある。当時、アトランタ・ブレーブスが本拠地球場としたターナーフィールドは、メイン会場だったセンテニアル・オリンピックスタジアムを改築されたもので、隣接していたアトランタ・フルトンカウンティ・スタジアムは取り壊され、駐車場になっていた。
「駐車場になっていたから、オールジャパンで行った時のイメージはなかったですよね。確かにあの球場はかなり古かったから」
激戦の舞台は消えていたが、アトランタで生まれた不思議な縁を感じる場面はたびたびあった。ホワイトソックスに移籍当時、同じシカゴに拠点を置くカブスには米国代表だったジャック・ジョーンズ外野手が在籍。準決勝で先発したクリス・ベンソン投手、ジェフ・ウィーバー投手、トロイ・グロース内野手、マーク・コッツェー外野手ら火花を散らした強敵たちも、グラウンドで顔を合わせれば笑顔で挨拶を交わす仲間になっていた。
キューバ代表メンバーだった右腕ホセ・コントレラスとは2005年、ホワイトソックスの同僚としてワールドシリーズ制覇の感動を共有する。
「今考えると…」 豪華面々が揃ったアトランタ当時の内野陣とは…
懐かしい名前を口にしながら当時を振り返っていた井口氏は、「今考えると……」と言うと、こう続けた。
「オールジャパンも凄かったですよね。外野には谷(佳知)さんがいて、内野は一塁が松中さん、二塁が今岡(真訪)、ショートが僕で、三塁が福留(孝介)。今考えると凄いメンバーだったな、と(笑)」
日米球界で見聞を広め、結果を残した井口氏は現在、千葉ロッテの監督として11年ぶりの日本シリーズ優勝を目指している。スポーツの世界では「名選手、名監督にあらず」と言われるが、就任当初リーグ最下位だったチームを3年でリーグ2位まで引き上げた。これまで積み上げた無数の経験が土台となり、今の井口氏が形作られているのだとすれば、大学時代に目標とし、出場を叶え、未来の選択肢を広げたアトランタの熱闘はかけがえのないものだったと言えそうだ。
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