「みんないい経験をして帰っていった」―若き代表世代からプロ、トップチームで活躍するカギは?

2019.4.22

5年前の2014年11月、21歳以下の選手が参加する「第1回 IBAF 21Uワールドカップ」が台湾・台中で開催された。野球日本代表「侍ジャパン」U-21代表は台湾に敗れ、2位となったが、大会の首位打者には打率5割というハイアベレージを残した鈴木誠也外野手(広島東洋)が輝いた。他にもベストナイン先発投手部門に上沢直之投手(北海道日本ハム)、二塁手で北条史也内野手(阪神)、遊撃手で牧原大成内野手(福岡ソフトバンク)、外野手で鈴木外野手が選出されるなど、現在、NPBの1軍で活躍する選手たちが名を連ねた。当時、侍ジャパンU-21代表の投手コーチとしてチームに帯同した豊田清氏が若き代表世代からプロ、トップチームで活躍できる選手の野球への取り組み方について語った。

写真提供=Full-Count

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鈴木誠也、近藤健介が5年前から持っていた資質「次のカテゴリーの準備ができていた」

 5年前の2014年11月、21歳以下の選手が参加する「第1回 IBAF 21Uワールドカップ」が台湾・台中で開催された。野球日本代表「侍ジャパン」U-21代表は台湾に敗れ、2位となったが、大会の首位打者には打率5割というハイアベレージを残した鈴木誠也外野手(広島東洋)が輝いた。他にもベストナイン先発投手部門に上沢直之投手(北海道日本ハム)、二塁手で北条史也内野手(阪神)、遊撃手で牧原大成内野手(福岡ソフトバンク)、外野手で鈴木外野手が選出されるなど、現在、NPBの1軍で活躍する選手たちが名を連ねた。当時、侍ジャパンU-21代表の投手コーチとしてチームに帯同した豊田清氏が若き代表世代からプロ、トップチームで活躍できる選手の野球への取り組み方について語った。

 当時、侍ジャパンはプロ・アマ混合チームで世界一へ向けて戦った。所属しているチーム、団体が異なるため、練習の取り組み方、試合への準備は十人十色だ。その中で、豊田氏は打者では鈴木外野手と近藤健介外野手(北海道日本ハム)の練習姿勢が印象に残っているという。今ではチームの4番も任されるほどに成長した2人には当時からその資質があったと振り返る。

「試合のなかったある練習日のこと。投手陣の練習を終えたので私は先に移動のバスに戻っていました。続々と選手たちも戻ってきたのですが、いつまで経っても、バスに乗ってこない選手がいました。それが鈴木、近藤両選手でした」

 宿舎へ戻るバスの出発時間はある程度、決まっていた。当時の平田勝男監督(現阪神2軍監督)ら首脳陣や選手たちは2人が戻ってくるのを待っていたが、付き添っていた小島啓民打撃コーチ(現北海道ガス監督)と一緒にバットを持って鈴木外野手と近藤外野手がようやくやってきたという。

「自身の練習に納得ができないからという理由でずっとバットを振っていたようです。限られた練習時間の中でやらないといけないと思っていながらも、ずっと練習をしていました。正直、『すごいな』と思いました。聞くとどうやら、普段からそういう風に納得のいくまでやっているようでした」

 鈴木外野手は主に5番を任され、打率5割を記録するなど打撃センスを発揮していた。一方、近藤外野手は4番を任されながらあまり目立った成績は残せなかったが、練習態度には目を見張るものがあったと豊田氏は明かす。

「元々、持っているもの(打撃センス)がいいわけですから。今の活躍を見ると練習は嘘つかないなと思いました。戦いの場が国際舞台という不慣れな環境であっても普段からやっていることを継続できる力があったから、成長したのだと思います。あの当時は、21歳以下と若い世代ですから、遊びたい、楽しくやりたいという思いを持っていた選手もいたはずです。でも、そういう雰囲気の中、ただ勝てばいい、という考えでは勝つことはできません。選ばれた中にはそういう考えの人もいましたが、2人にはそういう甘い考えはなかったですね」

「悔しい経験を国際大会ですることも、成長のカギとなる」

 平田監督は、投手では上沢投手、中村勝投手(北海道日本ハム)、森雄大投手(東北楽天)をローテーションの中心に置いた。その他にも横山雄哉投手(阪神)、野村亮介投手(現中日打撃投手)、田口麗斗投手(読売)、社会人1年目だった山岡泰輔投手(現オリックス)らの状態を見極め、先発やリリーフで起用した。

「上沢投手は当時まだ粗削りでしたが、いいボールを投げていました。練習態度もプロで3年、4年とやっているだけあるな、と思わせるものでした。昨シーズン、北海道日本ハムで11勝を挙げてブレークしましたね。鈴木選手、近藤選手に比べれば、才能が開花するのは遅かったですが、(活躍は)必然だったと思います」

 約20日間の大会期間中に練習、調整する姿を見ていたため、感心する部分もあったという。

「雨が多く降ったこともあって、足場がぬかるんだ中でピッチングもしました。こちらとしては練習をさせることが難しい中、上沢投手、中村投手の2人は場所さえあればやっていました。2人ともファイターズでやっている練習を工夫して、継続的にやっていた印象です。逆に、まだ1軍やプロ経験のない投手は大会の雰囲気に舞い上がっている部分はありました。先にNPBに入っている選手と、これから意識を注入して成長していく段階の選手とでは違いました」

 上沢投手、中村投手の2人と、当時まだ19歳の田口投手、山岡投手のような高校卒業して間もない選手たちとの間に意識の差はあったと豊田氏は振り返る。高校時代、広島県大会の決勝で引き分け再試合を演じたことで知られていた田口、山岡両投手は高い能力は持っていながら、大会中に思うようなパフォーマンスはできていなかった。そんな中、豊田氏は台湾や韓国などのライバルチームとの大事なゲームは経験のある投手を起用した。

「田口投手には普段、チーム(読売)で言っていることを言い続けていました。山岡投手については、ポテンシャルは抜群、指先が本当に器用な投手だと感じました。国内合宿の初日のブルペンで『こんなスライダーを投げる投手が高卒1年目でいるのか』と、プロでも見たことがない速いスライダーに驚きました。空振りが取れるからクローザーで使いたいと思っていましたが、でも、状態が上がってきませんでした」

 豊田氏は、プロと比較してはいけないと思いながらも、練習を見ていて継続する意識の薄さを感じたという。練習メニューもなかなか進まず、当時は当たり前のことができていないということも多かったと明かす。

「どんな環境でも練習をしっかり毎日、継続的にやっている選手はある程度、伸びていきます。センスのいい選手は一回だけの試合や練習で、抜群のプレーができますが、そのあとが続かないことが多いです。『もったいないな、取り組み方を変えればもっといい方向に行くのにな……』とすごく感じていました。なので、大会が終わってから山岡投手と少し話をしたのを覚えています」

 日本代表は決勝で当時・中国文化大学の現北海道日本ハム・王柏融(ワン・ボーロン)外野手が4番にいた台湾に0-9で敗れた。山岡投手は5番手で登板したが、すでに大差がついている終盤だった。試合後、敗戦の悔しさから泣いていた山岡投手に豊田コーチは「悔しいか?」と語りかけ、“ゴミ拾い”を引き合いに出し、普段の取り組む姿勢、習慣についての話をした。

「自分が落としたわけではないゴミが目の前にあった時、それをまたいで行くのか、拾ってゴミ箱に捨てて、前に進んでいくのか。そういう部分が人間的な成長、野球の成長にもつながるから視野を広げていこう、頑張っていこうな、という話をしました。他にも練習のことも言いました。山岡投手はこれからまだまだ伸びる投手と思っていましたし、あの時はまだ何も知らないだけでしたから。立場はプロとアマチュアで違いますが、同じ野球をやっている先輩として話をさせてもらいました」

 3年後、山岡投手はオリックスからドラフト1位指名を受け、ローテーションの中心を務めている。山岡投手だけでなく、当時大学3年生だった仙台大・熊原健人投手(現東北楽天)、立命大・桜井俊貴投手(読売)らアマチュアだった投手たちの動向は帰国後も常に気にしていた。プロになってグラウンドで再会した時は心からうれしかったという。

「当時のメンバーはみんないい経験をして帰っていたと思っています。私自身も偵察にも行きましたし、いろんなことを経験させてもらいました。初めての日本代表のコーチ経験で、それまでの指導は言う一方でしたが、初対面の選手や特徴の分からない選手とはコミュニケーションをしっかりと取らないといけないこと、気持ちを乗せてあげないといけないこと、などを知れて、その後のコーチ経験にも生きました」

 内向的だった選手が大会後、試合前に周囲とコミュニケーションを取るようになり、2軍でもマウンドで堂々と投げている姿も目にした。勝ち負けも大事だが、経験することの大きさも実感したという。

「鈴木選手、近藤選手も今ではトップチームでも選ばれていますし、これからも中心になっていく。年齢が上がっていけば自分たちはまた侍ジャパンのユニホームを着るんだという意識が根付いたのではないでしょうか。次のカテゴリーの準備ができたのだと思います。近藤選手は打撃にこそ苦しみましたが、4番を任された経験、責任はこの後に生きたはずです。実際、今は代表でも打っていますからね。そういう悔しい経験を国際大会ですることも、成長のカギとなるのではないでしょうか」

プロフィール
豊田清(とよだ・きよし)1971年2月2日、三重県亀山市出身。48歳。鈴鹿高、同朋大から92年埼玉西武にドラフト3位で入団。2000年まで先発、2001年からは抑えで活躍。02年、03年は最優秀救援投手。04年は日本シリーズで胴上げ投手となった。05年オフに読売へFA移籍し、抑え、中継ぎで活躍。09年は46登板で防御率1.99を記録し、チームの日本一に大きく貢献。11年に広島東洋に移籍し、現役引退。12年から昨年まで読売のコーチとして多くの救援陣を指導し、1軍のマウンドに送り出した。プロ19年で通算66勝50敗157セーブ。今季からは文化放送ライオンズナイター、テレビ埼玉などで野球解説者。その他、野球教室や講演など、野球振興に携わる。

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