経験は「自信や栄養になる」 大学代表3度選出・中後悠平氏が受けた刺激と衝撃

2022.5.9

自分の人生を振り返った時、もう1度戻れるとしたら、あなたはどの時代を選ぶだろう。現在、横浜DeNAの球団職員として働く中後悠平氏は「僕は大学生ですね。野球人生の中で最も濃い4年間。楽しい思い出です」と目を細めながら微笑んだ。

写真提供=横浜DeNAベイスターズ

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近畿大学2年で初選出「トントン拍子に進んでしまって…」

 自分の人生を振り返った時、もう1度戻れるとしたら、あなたはどの時代を選ぶだろう。現在、横浜DeNAの球団職員として働く中後悠平氏は「僕は大学生ですね。野球人生の中で最も濃い4年間。楽しい思い出です」と目を細めながら微笑んだ。

 変則サイドスロー左腕として、千葉ロッテ、横浜DeNA、米国などで8年にわたりプロのマウンドに上がった。だが、大学2年までプロの世界は縁遠いものだと感じていたという。それというのも、近大新宮高校時代は「ずっとメンバー外で公式戦で投げたのは3年生の時だけ」。実家近くの大学で体育教師を目指そうと考えていたが、近畿大学から声が掛かり、4年間で野球をやりきるつもりで入学していた。

 大学では1年春に関西学生野球リーグで公式戦デビューを果たすも、怪我もあって本格的に投げ始めたのは2年から。「最初は敗戦処理だったのが、球速150キロを記録すると、変則左腕ということもあって少し注目されるようになりました」。2年の春季リーグでは、10試合のうち9試合に登板し、3勝無敗、防御率1.47の好成績。チームを2季ぶりの優勝に導き、自身もMVPに輝いた。

 直後の全日本大学野球選手権大会では、1回戦の桐蔭横浜大学戦に先発して完投勝利。大学代表選考合宿に参加すると、その年の7月に開催された「第37回日米大学野球選手権大会」のメンバーに入った。「春のリーグ戦からトントン拍子に進んでしまって、自分でも『本当に大学代表?』という感じでした」と振り返る。

日米両代表にひしめくスター選手たち「周りから見たら僕も…」

 代表チームで周囲を見回せば、同世代のスター選手がひしめく。「法政大学の二神(一人)さん、早稲田大学の大石(達也)さん、中央大学の澤村(拓一)さん……。錚々たるメンバーが球速150キロを超えるえげつない球を平気で投げていて、度肝を抜かれました」。その他にも1学年上には斎藤佑樹投手(早稲田大学)と乾真大投手(東洋大学)、同学年には野村祐輔投手(明治大学)と菅野智之投手(東海大学)、1学年下には東浜巨投手(亜細亜大学)がいた。プロ注目の面々に圧倒されたが、同時に少し視点を変えると自信も生まれた。

「このメンバーの中に選ばれたということは、周りから見たら僕もそれに近い球を投げられているのかな、と思ったんです。僕の方が凄いとは全く思いませんでしたが、プロを目指せる立ち位置まで来たのかもしれないと、初めて意識するようになりました」

 来日した米国代表チームは、ゲリット・コール投手(現ニューヨーク・ヤンキース)やソニー・グレイ投手(現ミネソタ・ツインズ)が投手の軸だった。「コールはマウンドが合わなかったのか調子が悪かった。グレイは抜群の制球力で、抜くように投げるチェンジアップを使いながら、ストライクゾーンの高低内外だけではなく奥行きを利用した勝負に、日本の打者はバットを振らされてましたね」。

 野手ではヤズマニ・グランダル捕手(現シカゴ・ホワイトソックス)、コルテン・ウォン内野手(現ミルウォーキー・ブルワーズ)らが出場。全5試合のうち3試合(4回)で投げて1失点とした中後氏は「自信があったスライダーを結構振ってくれたので、スイングが違う海外選手にも変化球は通用するんだと感じました」と振り返る。

「鼻をきれいに折られました」同い年の本格派左腕に受けた衝撃

 大学3年の時は衝撃の出会いがあった。7月の「第5回世界大学野球選手権大会」に向けた代表選考合宿でのこと。「同世代で注目されるのは右投手ばかり。左投手は多くなかったし、直前の春季リーグもそれなりの成績を残していたので代表には選ばれるだろうと思っていました。でも、彼のピッチングを見た瞬間、鼻をきれいに折られましたね(笑)」。その「彼」とは、のちに千葉ロッテに同期入団する東洋大学の左腕・藤岡貴裕投手だった。

 2010年春、東都大学リーグで6勝を挙げてチームを優勝に導き、全日本大学野球選手権大会でも優勝した本格派左腕。その投球を目の当たりにした時のことは、今でも鮮明に覚えている。

「あれは人生で一番の衝撃。同じ左腕ということもあり、『こんなに凄い球を投げるんや。こういう投手がドラフト1位でプロに行くんだな』と思いました。案の定、キャッチボールをしても球が強すぎて取れませんでした」

 大会を終えた後には、こんなこともあった。ある日、掛かってきた突然の電話。声の主は藤岡投手だった。「悠平、俺、151キロ出したぞ」。当時、中後氏の最速が150キロだったのに対し、藤岡投手は149キロ。「え、すごいやん」と言葉を返した。関西と関東で離れているため、滅多に顔を合わせることはないが意識をしてくれていた。「連絡をくれた嬉しさと、連絡を受けた後の悔しさを覚えていますね」と懐かしそうに振り返る。

 大学最終年の2011年も代表入りした2人は、米国で開催された「第38回日米大学野球選手権大会」をともに戦った。そして、同年の新人選手選択会議(ドラフト)ではともに千葉ロッテから指名を受け、「まさか1位が藤岡、2位が僕で一緒のチームに入るとは思っていませんでした」と、その巡り合わせには驚くばかりだ。

大学代表入りを目標に…「自信や栄養になる」

 中後氏にとって大学代表はプロへの道を拓き、切磋琢磨できる仲間と出会い、自身を成長させる場となった。

「大学代表はすごく楽しかった。代表チームでの経験は、その後のリーグ戦はもちろん、自分の大学野球人生において自信や栄養になる。大学時代の目標として代表入りを目指すことは本当にいいことだと思います」

 現在は球団の営業部に所属し、現役時代とは違った立場から野球の魅力を伝えている。球団職員となって3年目。営業職のやり甲斐、難しさを熱心に話す途中、「あっ」と言うと嬉しそうな笑顔で続けた。

「2年の時に日米大学野球で一緒だった九州国際大学の加藤(政義)さん、今、営業部で一緒に働いているんですよ。僕より1年先に営業部に所属してます。これもまさか、ですね」

 大学代表で生まれた縁は、今でも確かに繋がっている。

記事提供=Full-Count
写真提供=横浜DeNAベイスターズ

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