「広い世界を知ることは大事」 元北海道日本ハム・榎下氏の人生を変えた高校代表

2022.1.24

北海道日本ハムで現在、国際グループ兼広報として活躍する榎下陽大氏は、鹿児島工業高のエースとして2006年夏の甲子園で4強に進出したことがある。さらに全日本高校選抜チームの一員として渡米し「日米親善高校野球大会」に参加、本場の“ベースボール”に触れた。代表でのチームメートは田中将大投手(東北楽天)、斎藤佑樹投手(元北海道日本ハム)という、社会現象にまでなった面々。榎下氏はこの代表経験を通じ、大げさではなく「人生が変わった」という。高校最後の夏、日本代表として何を経験したのか。

写真提供=Full-Count

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県立高校のエースが一躍、日本代表に 「雲の上の話ですよ」

 北海道日本ハムで現在、国際グループ兼広報として活躍する榎下陽大氏は、鹿児島工業高のエースとして2006年夏の甲子園で4強に進出したことがある。さらに全日本高校選抜チームの一員として渡米し「日米親善高校野球大会」に参加、本場の“ベースボール”に触れた。代表でのチームメートは田中将大投手(東北楽天)、斎藤佑樹投手(元北海道日本ハム)という、社会現象にまでなった面々。榎下氏はこの代表経験を通じ、大げさではなく「人生が変わった」という。高校最後の夏、日本代表として何を経験したのか。

「高校ジャパンなんて雲の上の話ですよ。甲子園に初出場して、試合ができるだけで満足というチームでした」

 榎下氏は人生の転機となった夏をこう振り返る。鹿児島県で県立高校が甲子園に出場するのは53年ぶりで、地元の熱狂とともに送り出された。「甲子園って、どんなところなのかな?」。そんな意識だったという。

 鹿児島工業高は2回戦から、しかも大会最後の登場だった。試合を待つ間も、憧れの甲子園に毎日のように通った。宿舎は球場から徒歩圏にあり、毎朝の散歩が日課だった。「ツタがすげえな」。そんな無欲のチームが、あれよあれよという間に4強へ進出するのだ。エースだった榎下氏の復調も大きな要因だった。

「とにかく、鹿児島県大会では感覚が良くなくて……。体重も1週間で5~6キロ落ちてましたね。決勝も2人の投手で19安打打たれて、8-7でやっと勝ったんです。でも甲子園に行ったら体重も戻り、ブルペンでの感覚がめちゃくちゃ良くなっていた。プレッシャーからの解放ですかね。そうとしか思えません」

 思わぬ知らせを受けたのは、福知山成美高との準々決勝に勝った後だ。「パスポート持ってますか、と聞かれたんです。高校ジャパンの候補に入っている、と」。程なく正式に決まったとの話があった。チームは準決勝で斎藤投手を擁する早稲田実業高に敗れたが、榎下氏の夏はまだ続いた。世間が、田中投手の駒大苫小牧高と早稲田実業高が見せた決勝引き分け、さらに再試合という激闘で沸く中いったん帰郷し、再び大阪での代表合宿へ向かった。

斎藤と田中は「次元が違いました」 さらに迎えたもう一つの挫折

 合宿での同部屋は、“ハンカチ王子”としてすっかり時の人になった斎藤投手と、橋本良平捕手(智弁和歌山高)だった。「凄い部屋に来てしまった」という緊張とは裏腹に、すぐに打ち解けた。「でも、スーパースターの中にいる感じは夢みたいでしたね。ふわふわした感じを取り切れないというか」。“雲の上”だと思っていた世界へ足を踏み入れる上での、洗礼だった。

 甲子園で4強入りし、榎下氏の“トルネード”をアレンジしたような豪快な投球フォームも注目されていた。自チーム内では「お前、もしかしたらプロ行けるんじゃないの?」という声が挙がり、その気にもなった。ただ、この合宿初日、ブルペンに入っただけで「斎藤と田中の投げるボールに、あまりに大きな衝撃を受けました……」と頭をかく。

「決勝であれだけ投げたのに、またすぐブルペンに入って、凄い球を投げていた。あんな球は初めて見ましたよ。次元が違いました」。直球の力とキレ、それを支える体つきも、自分と同じ18歳とは思えなかった。

 米国遠征に加わることとなり、榎下氏はもう一つ楽しみにしていることがあった。中学生の頃から、英語に強い興味があったのだ。高校入学前の数年間、両親に頼み込んで英会話スクールにも通わせてもらっていた。ネイティブの先生と話すことが楽しみで、続けられたのだという。「アメリカに行ける! となった時に、現地の人とコミュニケーションを取ってみたいなと思ったんです」。ところが、こちらでも大きな挫折を味わう。

「歓迎パーティがあったんですけど、何を言っているのか分からないんです。店に行って物を買うことも満足にできない。それが悔しくて……。もっとちゃんと勉強したいなと思いました」

野球だけではない、人生まで変えた米国での「出会い」

 米国ではニューヨークとロサンゼルスを訪問した。ニューヨーク州クーパーズタウンの米国野球殿堂博物館に隣接したグラウンド「ダブルデイ・フィールド」でも試合を行い、先発マウンドに立った。自然に囲まれた、小さな格式のある野球場は、当時の目には「なんか古い球場だな」としか見えなかった。球場と殿堂にまつわる歴史を知るのは、もっと後のことだ。日米球界を股にかけて仕事をする今では、凄い経験をしたのだと振り返ることができる。

 ロサンゼルスでは、カリフォルニア州立大学の球場で試合を行った。そしてこの時、榎下氏にはもう一つ、運命を変える出会いが待っていた。ニューヨークではホテルに宿泊したが、ここでは現地の一般家庭にホームステイ。榎下氏を受け入れてくれたのは、鹿児島工業高のチームメート・鮫島哲新捕手の親戚だった。ここで出会った4歳年下の日系4世の女の子と、後に結婚することになるのだ。

「見た目は日本人ぽいのに、英語をしゃべっているのが不思議でしたね。僕は英語を勉強したいし、彼女は日本語を勉強したがっていたので、日本に帰ってからも電子メールでやり取りするようになったんです。僕が作った英語の文章を添削してもらう感じで、言葉の先生をお互いにやっていた感じです」

 貴重な経験をして日本に帰ってくると、進路を選ばなくてはならなかった。「県大会の決勝で負けていれば、野球を続けていたかわかりません。でも甲子園に行って、日本代表にまで呼んでもらった。それで揺れたんです」。ただ軸に置いていたのは、米国遠征で膨らんだ「英語を話せるようになりたい」という思いだった。九州産業大学から「英語の教員免許を取れる学部があるから」という誘いを受け、進学することになった。

「何万人も高校野球をやっている中の18人」

「英語の勉強が8、野球が2」のつもりで進んだ大学。実際に朝から夕方まで授業がびっしりで、練習できるのは1時間そこそこという日が続いた。ただここでウエートトレーニングに出会ったことで、榎下氏の野球人生は大きく変わる。ボールが目に見えて速くなるのが分かった。そうするとより効率のいい練習を求め、没頭していくようになる。全国大会でも活躍し、スカウトからも注目を集めるようになった。そして、2010年秋のドラフトで北海道日本ハムから4位指名を受け、プロ入りする。

 プロ野球では7年間で35試合に投げ2勝1敗、防御率3.76と、一流と呼べる成績を残すには至らなかった。だが、引退後も球団に残り、現在は国際グループ兼広報として多忙な日々を送る。あの夏に膨らんだ「英語への興味」も今、外国人選手の調査などの業務に大いに生かされている。現役引退した翌年の2018年には、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズに1年間派遣され、2020年まで駐米スカウトの業務を担っていた。2006年の夏は、その原点だ。

「あの日本代表には18人しか選ばれていません。何万人も高校野球をやっている中の18人というのが凄い経験でしたし、同じ世代にはこういう選手がいると知ることもできた。代表に入っていなければ、甲子園が終わった時に勘違いして、プロ志望届を出していたかもしれません。鹿児島で有名でも、もっと広い世界を知ることは大事だと思い知らされた経験ですね」

 現在の仕事へと至るきっかけに加え、生涯の伴侶とも出会った。あの夏がなければ、全く違った人生が待っていたはずだ。「日本代表」に加わったことで、ここまで大きく人生が変わった選手も、そうはいないだろう。

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