侍ジャパン悲願達成へ 元日本代表守護神が語る戦い方 「全勝と掲げてしまうと…」

2019.1.30

稲葉篤紀監督のもと、世界一を目指している野球日本代表「侍ジャパン」。2020年に世界の頂点に立つことが大きな目標となるが、その道は決して平坦ではない。厳しいプロ野球の世界で、トッププレーヤーとして活躍する選手たちにとっても、国際大会は全くの別物。世界トップクラスを維持し続ける日本には、「勝って当たり前」というプレッシャーもかかる。

写真提供=Getty Images

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アテネ五輪で守護神を務めた小林雅英氏が明かす、頂点に駆け上がるために必要なことは…

 稲葉篤紀監督のもと、世界一を目指している野球日本代表「侍ジャパン」。2020年に世界の頂点に立つことが大きな目標となるが、その道は決して平坦ではない。厳しいプロ野球の世界で、トッププレーヤーとして活躍する選手たちにとっても、国際大会は全くの別物。世界トップクラスを維持し続ける日本には、「勝って当たり前」というプレッシャーもかかる。

 現役時代に千葉ロッテ、読売、オリックスでプレーし、通算228セーブを挙げた小林雅英氏は、日本の守護神として2004年のアテネ五輪に出場。日本は銅メダルという結果を残したが、最大の目標であった金メダル獲得はならなかった。「オリンピック素人だった」と振り返る小林氏。頂点に駆け上がるために、経験者だからこそ語れることがある。

 小林氏は日本体育大学時代に、大学日本代表の一員として日米大学野球に出場した経験がある。ただ、「僕らは申し訳ないですけど観光気分で(米国に)行って、その結果、5戦全敗で帰ってきた」と振り返る。その後、東京ガスを経てロッテに進んだものの、日の丸に縁はなかった。それでも、ロッテでは2000年途中からクローザーを任されると、2001年から3年連続30セーブ以上をマーク。そして、2003年10~11月の「第22回アジア野球選手権大会2003」で日本代表に選出。翌年のアテネ五輪優勝を目指し、長嶋茂雄監督が率いた代表チームでクローザーを任された。日本が初めて「オールプロ」で臨んだ大会だった。

 小林氏がプロ入りしたのは1999年。一方、日本代表として五輪にプロ野球選手が出場するようになったのは、2000年のシドニー大会(プロアマ混合で出場)からだった。それだけに「僕がプロに入った時点でそんなこと(日本代表でのプレー)はありえない環境だった」と振り返る。プロ野球選手にとって日本代表選出というのは「馴染みがなかった」「『日の丸をつけてやる』という感覚でプロの世界で過ごすことがなかった」というのが現実だった。

「正直、(日本代表は)目標ではなかったんです。目標ではなかったんですけど、2003年のアテネ五輪予選のときには日の丸ということにプラスして、僕らの中では長嶋茂雄さんが監督をして、ジャパンのユニホームを背負って、ましてや初めて12球団の選抜チームでやるというところが、プレッシャーでした。プロで負けられないですし、日本のプロ野球の中では長嶋茂雄さんが負けちゃダメなんですよ。

 ましてや、それがアジアの予選だった。中国、韓国、チャイニーズ・タイペイ、日本の4チームでやったんですけど、日本のプロ野球で結果を出していることが、アジアでは自分に対しての最高の名誉、すべてだと思っていました。もしチャイニーズ・タイペイとか韓国に負けるようなことがあれば、向こうのリーグの方がレベルが高いのではないか、という話につながってくると思ったので、色んな意味で予選は異様な雰囲気の中でやったのを覚えてます

 日本の野球を背負っていたと思いますし、日の丸ももちろん背負っていましたし、一番大きかったのが長嶋茂雄さんが監督だったということ。その中でやれたのはすごく幸せなことだったと思います。本当にあれだけのメンバーで真剣に1点を取りに行く、1点を守りに行く、という野球をやらせていただいたのは、僕にとっていい経験になりました」

「全勝」を目標に掲げた2004年は「負けたときの反動がちょっと大きかった」

 結果的に、日本は全勝でアジア制覇。アテネ五輪出場を決めた。その後、長嶋監督が脳梗塞のため入院したため、本大会は中畑清ヘッドコーチが監督代行を務める形で出場。予選リーグはオーストラリアに敗れながら突破したが、準決勝で再びオーストラリアの前に苦杯をなめ、最後はカナダに勝って銅メダル獲得という形で大会を終えた。

 アジア予選だけでなく、世界に出ても、日本は勝たなくてはいけない――。そんな重圧を選手たちは感じていたという。

「2004年は、予選から全勝で金メダルを獲る、というのが目標だったんです。その後、アメリカ(メジャーリーグ)に行ったり、コーチも経験させていただいてみて、2004年はプロだけで出場したんですけど、『オリンピック素人』だったな、と思いました。オリンピック(を戦う)にも戦略があると思うんです。2020年も、どうしても『全勝』と掲げてしまうと、すべてのゲームにテンションをかけていってしまいますし、(2004年は)負けたときの反動がちょっと大きかった。

 確かに全勝することは必要だと思いますし、それで金メダルまで行くことを一番の目標としてもいいと思うんですけど、周りでちょっと冷静に見られる人がいて、勝敗表を見ながらとか、得失点差を見ながら『必ず決勝に行ける』とプランニングすることも必要なのではないかと思います。『負けてもいい』というのは変なんですけど、ちょっと気持ち的な余裕というか、『どうしても全勝』と思ってしまうと、特に先発ピッチャーはすごくプレッシャーがかかります。2004年もそう思ってやった結果、オーストラリアに(予選リーグで)負けてしまって。負けるはずがないと思っていたチームに負けたことでのチームの動揺は、なくはなかったので。

 結局、その後にもオーストラリアと準決勝で当たって、今度は負けたチームだからともっとテンション上げていって、0-1で負けてしまった。そういう戦略というか、マネージメントも臨機応変にやっていく必要があるんじゃないかなと。金メダルを獲ることの難しさを経験したので、どうやって道筋を立てていくか、そういうところの反省点を誰かが共有できていれば、いい戦い方、戦略になるのではないかと思います」

メジャーリーグでの経験で感じたライバルの底力「何を教えても結果を出せる人の集合体」

 そして、当然ながら、金メダルに向けてライバルの存在も気になるところ。2008年にロッテからクリーブランド・インディアンスに移籍した小林氏は、翌2009年には3A降格も経験。マイナーリーグでプレーしたからこそ、常に日本のライバルとなる野球の母国・米国の“底力”も肌で感じた。2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシック™(WBC)準決勝で日本が敗れたライバルは、どんなメンバーであっても強敵だ。

「『日本(プロ野球)で活躍する外国人選手が、向こうで活躍できないのはなんでだろう。こんなに凄いのに』と思っていましたが、米国に行って『やっぱりだ。そうなんだ。何かが足りないから日本に来ているんだ』と感じました。日本でやれば、その足りないものを補えるくらいのものを持っている。でも、向こうではその足りない部分を補えないというか、『だから日本でやっているんだ』と感じました。(メジャーリーグでは)そんな打者が1番から9番までいるので。ましてや、DHはあれだけいる人間の中の15人なので。そう考えたら素晴らしいパフォーマンスを持った選手たちの集まりです。

 マイナーはマイナーで必死さがまた違って、どうしても早くメジャー契約して、最低限の年俸をもらって、苦しい環境から抜け出したい、という気持ちも伝わってきますし、若い選手たちが化けて一流になっていくところも見ることができました。(選手は)マイナーでもしっかり自分の勉強もしてますし、周りの人にも勉強させられてますし、『(メジャー契約の)40人の枠を勝ち取る』という厳しさも持っています。ハングリー精神も持っていますし、40人になったらそこを必死で守るという気持ちもあります。1チームの40人の中に入るということが野球人として完成されていて、監督・コーチが技術論、精神論を教える必要がない。何を教えても結果を出せる人の集合体。その中でも25人しかベンチに入れないという競争社会です」

 金メダル獲得に向けて、乗り越えなければいけない壁は多い。ただ、侍ジャパンを常設化してから、多くの国際大会を戦ってきた日本代表には、豊富な経験もある。ライバルを撃破し、頂点へと駆け上がることに期待したい。


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